今回IMGP3630のボランティア活動の中で思ったことを記してみたい。
使うのがためらわれる寝具類のことについてはもう触れた。震災直後なら、とにかく何でも、ということもあっただろうが、半年以上が経過して被災地の生活にもある程度落ち着きが出てきている段階では、やはり私たちが日ごろ使用しているような品物が必要で、状態の悪い品は処分の手間を考えると送られても却って迷惑になるように思う。
おそらく企業が送ってきたのだろうが、大量の陶器が届いていた。新品なのは有り難いが、茶碗や皿は役立つIMGP3631にしても、花瓶かと思えるような大きなマグカップや大量の猪口はとても盛岡市の支援施設だけで捌けるものではない。これらは手間暇かけて他の施設に分配するか廃棄してしまうしかない。重いので保管場所から運び出すだけでも一苦労だし、結果として本来やるべき活動に支障が出てしまう。

こうした事態は、支援物資を募る側からの情報発信が不足していること、被災者の生活について物資を送る側が理解できていないことなどから生じていると考えられる。それに加えて、支援団体間の連携不足も指摘できる。物資や人手が、こちらの団体では余っているのにあちらでは不足している、という状態が日常的にあるようだ。支援団体で「専従」で活動している人々ももちろんこの問題を把握しているし、改善を図っているのだが、日常業務に忙殺されてなかなか他団体との調整に時間を割けないのが実情のようだ。

専従者の今後の生活も課題となるように思う。私たちが活動した支援団体の専従者は、行政から団体に支給される補助金で生活しているが、月収は10万そこそこでワーキングプアそのものという状態。行政からの補助がいつまでも続くわけはなく、支援団体の活動も永続するものではない。かれら自身の生活にも先の見えない不安が消えない。

様々な問題を抱えながらも、被災者の要望に何とか出来る限り応え、支援物資を少しでも有効に活用しようと活動している人々。被災で失われた日常を少しずつ取り戻しつつある人々の粘り強い姿。行政や東電の対応には希望のかけらも見出せないが、盛岡で触れた人々の姿には救いがあった。何らかの形でまた支援活動に参加したいと思っている。

por Andrés

Andres y Amelia日記・コラム・つぶやき今回のボランティア活動の中で思ったことを記してみたい。 使うのがためらわれる寝具類のことについてはもう触れた。震災直後なら、とにかく何でも、ということもあっただろうが、半年以上が経過して被災地の生活にもある程度落ち着きが出てきている段階では、やはり私たちが日ごろ使用しているような品物が必要で、状態の悪い品は処分の手間を考えると送られても却って迷惑になるように思う。 おそらく企業が送ってきたのだろうが、大量の陶器が届いていた。新品なのは有り難いが、茶碗や皿は役立つにしても、花瓶かと思えるような大きなマグカップや大量の猪口はとても盛岡市の支援施設だけで捌けるものではない。これらは手間暇かけて他の施設に分配するか廃棄してしまうしかない。重いので保管場所から運び出すだけでも一苦労だし、結果として本来やるべき活動に支障が出てしまう。 こうした事態は、支援物資を募る側からの情報発信が不足していること、被災者の生活について物資を送る側が理解できていないことなどから生じていると考えられる。それに加えて、支援団体間の連携不足も指摘できる。物資や人手が、こちらの団体では余っているのにあちらでは不足している、という状態が日常的にあるようだ。支援団体で「専従」で活動している人々ももちろんこの問題を把握しているし、改善を図っているのだが、日常業務に忙殺されてなかなか他団体との調整に時間を割けないのが実情のようだ。 専従者の今後の生活も課題となるように思う。私たちが活動した支援団体の専従者は、行政から団体に支給される補助金で生活しているが、月収は10万そこそこでワーキングプアそのものという状態。行政からの補助がいつまでも続くわけはなく、支援団体の活動も永続するものではない。かれら自身の生活にも先の見えない不安が消えない。 様々な問題を抱えながらも、被災者の要望に何とか出来る限り応え、支援物資を少しでも有効に活用しようと活動している人々。被災で失われた日常を少しずつ取り戻しつつある人々の粘り強い姿。行政や東電の対応には希望のかけらも見出せないが、盛岡で触れた人々の姿には救いがあった。何らかの形でまた支援活動に参加したいと思っている。 por Andrés退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)