安部首相が靖国神社を参拝した。念願がかなったということなのだろう。しかし靖国参拝に彼がつけた意義は、またもや論理的倫理的に破綻している。
靖国神社がA級戦犯を合祀しているのは、本質的な問題ではない。「国のために命を捧げた人々に尊崇の意を表すのは当然」というような彼のことばに、責任という概念が決定的に欠如しているという安部の本質が現れているのだ。
靖国神社には、本人や遺族の意思を無視して旧植民地(台湾や朝鮮半島など)の人々も合祀されている。またキリスト教徒などの非神道の人々も合祀されている。さらに意に反して戦場に駆り出された人々、戦場で表現しがたいほどの肉体的精神的苦痛を味わった人々と、自ら戦争を遂行した者たちとが一緒くたにして祀られている。
安部は、東京裁判は戦勝国による一方的処断でしかなく、日本人がいつまでも縛られる必要はない、と考えるのだろう。また第二次世界大戦を日本による侵略戦争だと捉えるのもおかしいと考えるのだろう。しかし問題はその先、つまりあの戦争を何だったと捉え、戦争責任をどう考えるのかにある。
安部の言動からすると、アジア諸国を欧米列強の植民地支配から解放して大東亜共栄圏を築くための戦いだったのだ、ということなのかもしれない。だが事実は「大東亜共栄圏」がまやかしだったことを証明しているし、それは欧米列強がその植民地支配を「文明化するため」と言っていたのと同じだ。またたとえ「大東亜共栄圏」が真実だったとするなら、第二次大戦の正義は日本にあって米英は悪と言うことになり、戦中戦後一貫して正義は自分たちの側にあるとしている米国にすり寄り同盟を結び続けている岸信介や安部はまさしく売国奴ということになるだろう。
靖国問題というと常に中国や韓国からの批判が大きく取り上げられ、国際問題とされる。今回はさらに米国やEUからの否定的反応が加わったために一層そうした傾向が強い。しかし重要なのはまず、日本人が第二次大戦をどう総括し、戦争責任をどう追及するかなのだ。それができないのなら、東京裁判を批判する資格はないし、中国や韓国に反駁する権利もない。先ずは自ら戦争責任に正面から向かい合わなければならない。もちろん「責任」という概念を持ち合わせていない安部には、望むべくもないことだが。
por Andrés

Andres y Amelia政治・経済・国際安部首相が靖国神社を参拝した。念願がかなったということなのだろう。しかし靖国参拝に彼がつけた意義は、またもや論理的倫理的に破綻している。靖国神社がA級戦犯を合祀しているのは、本質的な問題ではない。「国のために命を捧げた人々に尊崇の意を表すのは当然」というような彼のことばに、責任という概念が決定的に欠如しているという安部の本質が現れているのだ。靖国神社には、本人や遺族の意思を無視して旧植民地(台湾や朝鮮半島など)の人々も合祀されている。またキリスト教徒などの非神道の人々も合祀されている。さらに意に反して戦場に駆り出された人々、戦場で表現しがたいほどの肉体的精神的苦痛を味わった人々と、自ら戦争を遂行した者たちとが一緒くたにして祀られている。安部は、東京裁判は戦勝国による一方的処断でしかなく、日本人がいつまでも縛られる必要はない、と考えるのだろう。また第二次世界大戦を日本による侵略戦争だと捉えるのもおかしいと考えるのだろう。しかし問題はその先、つまりあの戦争を何だったと捉え、戦争責任をどう考えるのかにある。安部の言動からすると、アジア諸国を欧米列強の植民地支配から解放して大東亜共栄圏を築くための戦いだったのだ、ということなのかもしれない。だが事実は「大東亜共栄圏」がまやかしだったことを証明しているし、それは欧米列強がその植民地支配を「文明化するため」と言っていたのと同じだ。またたとえ「大東亜共栄圏」が真実だったとするなら、第二次大戦の正義は日本にあって米英は悪と言うことになり、戦中戦後一貫して正義は自分たちの側にあるとしている米国にすり寄り同盟を結び続けている岸信介や安部はまさしく売国奴ということになるだろう。靖国問題というと常に中国や韓国からの批判が大きく取り上げられ、国際問題とされる。今回はさらに米国やEUからの否定的反応が加わったために一層そうした傾向が強い。しかし重要なのはまず、日本人が第二次大戦をどう総括し、戦争責任をどう追及するかなのだ。それができないのなら、東京裁判を批判する資格はないし、中国や韓国に反駁する権利もない。先ずは自ら戦争責任に正面から向かい合わなければならない。もちろん「責任」という概念を持ち合わせていない安部には、望むべくもないことだが。por Andrés退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)