サルバドールが反政府活動を行った1973年。ちょうど私たちが学生だった頃。大学の日常には60年代末の全共闘運動は名残ほどしかなかったとは言え、まだまだ「政治の季節」は続いていた。しかし党派闘争、党派内闘争が主になってしまい、「世界を変える」ことはいつの間にか忘れられていた。権力を倒すことが単なる「権力の置き換え」に、さらにはより強大な権力になってしまった既存の社会主義への批判を出発点としたはずなのに、小権力になっているだけで、自らの中に権力を無化するシステムを組み入れるという志向さえも見失っていた。権力にもうひとつの権力を対置するのではなく、と同様に暴力に別の暴力を対置するのでもない方途を探らなければならなかったときに、実際には連合赤軍のように矮小な権力・矮小な暴力を手に入れることで何事かをなしたかのように錯覚し、錯覚から覚めないためにそれらを内部に向けるなどという最悪の結果を招いていた。

「サルバドールの朝」でも闘争の行き詰まりの中で、仲間内での対立や分裂が描かれ、無意味な暴力の行使がかえって闘争を衰退に導く様子も語られている。

後半30分ほど、主人公のサルバドールの処刑が迫ってくる部分は息が詰まる思いをさせられる。ガローテという処刑方法の残酷さだけでなく、死刑制度そのものの残酷さが強烈に伝わってくる。

死刑制度廃止の流れがある中で、最近の日本国内ではむしろ死刑を求める声が大きくなっているようにも思える。殺人事件の被害者遺族の気持ちを想像すると、心情的には分からなくもないのだが、刑罰を「復讐」の実現とみなすようなことから何かの解決がもたらされるとは思えない。また、遺族が「復讐」でいくばくかの安堵を得られるとも思えないのだが。

メロドラマとみなしてしまうこともできなくはないこの「サルバドールの朝」。しかし何故かどうにもまとまった感想が書きにくい。

por Andres

Andres y Amelia映画・テレビサルバドールが反政府活動を行った1973年。ちょうど私たちが学生だった頃。大学の日常には60年代末の全共闘運動は名残ほどしかなかったとは言え、まだまだ「政治の季節」は続いていた。しかし党派闘争、党派内闘争が主になってしまい、「世界を変える」ことはいつの間にか忘れられていた。権力を倒すことが単なる「権力の置き換え」に、さらにはより強大な権力になってしまった既存の社会主義への批判を出発点としたはずなのに、小権力になっているだけで、自らの中に権力を無化するシステムを組み入れるという志向さえも見失っていた。権力にもうひとつの権力を対置するのではなく、と同様に暴力に別の暴力を対置するのでもない方途を探らなければならなかったときに、実際には連合赤軍のように矮小な権力・矮小な暴力を手に入れることで何事かをなしたかのように錯覚し、錯覚から覚めないためにそれらを内部に向けるなどという最悪の結果を招いていた。 「サルバドールの朝」でも闘争の行き詰まりの中で、仲間内での対立や分裂が描かれ、無意味な暴力の行使がかえって闘争を衰退に導く様子も語られている。 後半30分ほど、主人公のサルバドールの処刑が迫ってくる部分は息が詰まる思いをさせられる。ガローテという処刑方法の残酷さだけでなく、死刑制度そのものの残酷さが強烈に伝わってくる。 死刑制度廃止の流れがある中で、最近の日本国内ではむしろ死刑を求める声が大きくなっているようにも思える。殺人事件の被害者遺族の気持ちを想像すると、心情的には分からなくもないのだが、刑罰を「復讐」の実現とみなすようなことから何かの解決がもたらされるとは思えない。また、遺族が「復讐」でいくばくかの安堵を得られるとも思えないのだが。 メロドラマとみなしてしまうこともできなくはないこの「サルバドールの朝」。しかし何故かどうにもまとまった感想が書きにくい。 por Andres退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)