ハンガリー映画「君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956」(原題「愛、自由」)を観た。1956年のハンガリー革命(当時、日本では「ハンガリー動乱」と呼ばれた)と、同年のメルボルン・オリンピック水球でのハンガリーの優勝という二つの史実を背景に、革命の中心で活動する女子学生ヴィキと水球チームのエースであるカルチとの恋愛を通して、革命のつかの間の勝利とソ連軍の介入による敗北を描いた作品である。(http://www.hungary1956-movie.com/

 政治に積極的に関わるヴィキに政治には無関心でスポーツに打ち込むカルチが近づき、二人の間に愛が育つとともにカルチも革命に加わって行くようになる。上映中から既視感があったのだが、「いちご白書」と似ている。ただし「ハンガリー1956」の方が重く辛く感じられるのは、カリフォルニアとブダペストの違いのせいではないだろう。この作品では、主人公二人のそれぞれの家族も背景として描かれ、特にカルチの母親の、政治になど関わらずにメダルを目指してほしいという切実な願いが民衆の典型を担うような形で描写され、作品に深みを与えている。またラストではヴィキの処刑が暗示される一方、金メダルを獲得したハンガリー水球チームの選手の多くが亡命を決めている中で、カルチの去就は明らかにされない。家族を残し、どんな運命をたどったかが分からないヴィキを残して亡命するのは耐えられないだろうが、帰国すれば「反革命」としての処罰が待っていることも確かなのだ。

 フルシチョフによるスターリン批判があったとはいえ、ソビエト共産党のスターリン主義はその後も継続したが、スターリン主義は決してソ連や各国共産党の専売特許ではない。要するに人間よりも党=国家を優先する政策がこの作品の主題となった悲劇を生んだのだ。本来、人々の平穏な生活を維持するために仕方なくその存在を許容せざるを得ない必要悪でしかない国家。この「必要悪」の「必要」の部分だけを肥大化させ、国家の維持が最高目的であるかのように論理を逆転させるのが権力者の常だが、私たちは「悪」の部分を見据えて国家を極小化する道を探らなければならないとあらためて思った。

por Andres

Andres y Amelia映画・テレビ ハンガリー映画「君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956」(原題「愛、自由」)を観た。1956年のハンガリー革命(当時、日本では「ハンガリー動乱」と呼ばれた)と、同年のメルボルン・オリンピック水球でのハンガリーの優勝という二つの史実を背景に、革命の中心で活動する女子学生ヴィキと水球チームのエースであるカルチとの恋愛を通して、革命のつかの間の勝利とソ連軍の介入による敗北を描いた作品である。(http://www.hungary1956-movie.com/)  政治に積極的に関わるヴィキに政治には無関心でスポーツに打ち込むカルチが近づき、二人の間に愛が育つとともにカルチも革命に加わって行くようになる。上映中から既視感があったのだが、「いちご白書」と似ている。ただし「ハンガリー1956」の方が重く辛く感じられるのは、カリフォルニアとブダペストの違いのせいではないだろう。この作品では、主人公二人のそれぞれの家族も背景として描かれ、特にカルチの母親の、政治になど関わらずにメダルを目指してほしいという切実な願いが民衆の典型を担うような形で描写され、作品に深みを与えている。またラストではヴィキの処刑が暗示される一方、金メダルを獲得したハンガリー水球チームの選手の多くが亡命を決めている中で、カルチの去就は明らかにされない。家族を残し、どんな運命をたどったかが分からないヴィキを残して亡命するのは耐えられないだろうが、帰国すれば「反革命」としての処罰が待っていることも確かなのだ。  フルシチョフによるスターリン批判があったとはいえ、ソビエト共産党のスターリン主義はその後も継続したが、スターリン主義は決してソ連や各国共産党の専売特許ではない。要するに人間よりも党=国家を優先する政策がこの作品の主題となった悲劇を生んだのだ。本来、人々の平穏な生活を維持するために仕方なくその存在を許容せざるを得ない必要悪でしかない国家。この「必要悪」の「必要」の部分だけを肥大化させ、国家の維持が最高目的であるかのように論理を逆転させるのが権力者の常だが、私たちは「悪」の部分を見据えて国家を極小化する道を探らなければならないとあらためて思った。 por Andres退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)