従軍慰安婦問題が、韓国政府の姿勢、日本政府の対応、在米韓国人団体による碑の設置、そして朝日新聞による誤報取り消しなどであらためて論議の的になっている。そこでの争点の中心は、従軍慰安婦は旧日本軍によって強制連行されたものだったのかどうか、ということだ。中には「従軍慰安婦はどこの国の軍隊にもあったこと。なぜ日本だけが非難される」といったような意見もあるが、もっとも大きな論点は「強制性」である。しかし議論の中で忘れられている、あるいはあえて無視されていることが二点ある。

一つは、日本は敗戦時において大規模な文書類の焼却・廃棄で組織的に証拠隠滅を行ったということだ。これはもちろん歴史の隠蔽であり捏造にもつながるものだが、同時にこれによって日本は他国からの批判に対して反論が困難になってしまったということでもある。つまり、「強制性」はなかったと主張する人々は単に証拠物件の不在によってそれを証明することできなくなったということだ。元従軍慰安婦の人々が「自分たちは強制的に慰安婦にさせられた」と主張しているのに対して、「強制性」を否定しようとする側は、「強制性」を示す証拠がないというだけでは全く説得力を持たない。積極的に「強制性の不在」を示す証拠、あるいは「明確な任意性」を示す証拠を挙げる必要があるのだ。挙証責任はあくまでも日本側にある。それが証拠隠滅を行った側、権力を持った側の負うべき責務だ。

もう一つは、旧日本軍に最も極端に現れていることだが、「強制性」は「軍」の本質的属性だと言うことだ。徴兵制は勿論だが、志願兵制であっても何ら本質に変わりはない。自己の命を危険に晒すことを躊躇しない人間はほとんどいない。それを可能とするのは、上官の直接的暴力や軍法会議のような組織的暴力、あるいは親族への圧迫といった間接的暴力などの強制の存在だ。さらには学校教育、情報、日常生活のなかで常に繰り返されている国家幻想への取り込みも。

従軍慰安婦問題で「河野談話」を批判する人々は、挙証責任を果たしているだろうか。

従軍慰安婦問題で日本の責任を認める人々は、「軍」の本質を批判する視点を持っているだろうか。

por Andrés

Andres y Amelia政治・経済・国際従軍慰安婦問題が、韓国政府の姿勢、日本政府の対応、在米韓国人団体による碑の設置、そして朝日新聞による誤報取り消しなどであらためて論議の的になっている。そこでの争点の中心は、従軍慰安婦は旧日本軍によって強制連行されたものだったのかどうか、ということだ。中には「従軍慰安婦はどこの国の軍隊にもあったこと。なぜ日本だけが非難される」といったような意見もあるが、もっとも大きな論点は「強制性」である。しかし議論の中で忘れられている、あるいはあえて無視されていることが二点ある。 一つは、日本は敗戦時において大規模な文書類の焼却・廃棄で組織的に証拠隠滅を行ったということだ。これはもちろん歴史の隠蔽であり捏造にもつながるものだが、同時にこれによって日本は他国からの批判に対して反論が困難になってしまったということでもある。つまり、「強制性」はなかったと主張する人々は単に証拠物件の不在によってそれを証明することできなくなったということだ。元従軍慰安婦の人々が「自分たちは強制的に慰安婦にさせられた」と主張しているのに対して、「強制性」を否定しようとする側は、「強制性」を示す証拠がないというだけでは全く説得力を持たない。積極的に「強制性の不在」を示す証拠、あるいは「明確な任意性」を示す証拠を挙げる必要があるのだ。挙証責任はあくまでも日本側にある。それが証拠隠滅を行った側、権力を持った側の負うべき責務だ。 もう一つは、旧日本軍に最も極端に現れていることだが、「強制性」は「軍」の本質的属性だと言うことだ。徴兵制は勿論だが、志願兵制であっても何ら本質に変わりはない。自己の命を危険に晒すことを躊躇しない人間はほとんどいない。それを可能とするのは、上官の直接的暴力や軍法会議のような組織的暴力、あるいは親族への圧迫といった間接的暴力などの強制の存在だ。さらには学校教育、情報、日常生活のなかで常に繰り返されている国家幻想への取り込みも。 従軍慰安婦問題で「河野談話」を批判する人々は、挙証責任を果たしているだろうか。 従軍慰安婦問題で日本の責任を認める人々は、「軍」の本質を批判する視点を持っているだろうか。 por Andrés退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)