原題 Todo lo que tú quieras

マドリッドに暮らす平凡な家族、レオ、アリシア、4才の娘ダフィネ。アリシアの突然の死でレオが男手ひとつで子供を育てることになる。ダフィネはレオに母の姿を求める。娘のためにレオは自宅では女装して母親を演じる。やがてダフィネはレオを「ママ」と呼ぶようになり、学校でも母親が生きていると言うようになる。ゲームのつもりで母親を演じていたレオは驚き、ダフィネに自分を「パパ」と呼ばせようとするのだが、ダフィネは「ママ」としか呼ばない。ダフィネが望むならと、レオは学校への送迎でも女装して母親を演じるようになる。ある日、レオは若者の集団に襲われて袋叩きにあい入院する。その間にダフィネは遠方にある死んだアリシアの実家に引き取られて教会の経営する学校に転校させられる。退院したレオが女装してダフィネを迎えに行くと、ダフィネは大喜びで抱きついてくる。帰途に泊まったホテルで、ダフィネは「家に帰ったらパパに会いたい」と言い出す。レオが「じゃあ、カツラをとって化粧を落とし、パパに戻ろうか」と尋ねるとダフィネは肯く。そして「ママに会いたいときは目を閉じてママのことを考えればいいから」と言う。

娘を深く愛する父親の必死さがよく描かれているが、このままで行くとダフィネがやがてショックを受けて混乱することになるのではと心配していた。しかし子どもは自分で母親の死を消化し、父親の困惑を乗り越えて成長していた。

同性愛者への偏見・差別と理解といった現代的題材も出てはいるが、あくまでも主題は子供の成長。「汚れなき悪戯」や「ミツバチのささやき」などには及ばないが、子役の視線がすばらしい。

今回はスペイン語、マドリードが舞台なので早口ではあるが聞き取りやすい。英語の字幕付きで、ついつい字幕を読んでしまう。7~8割は理解できたが、それが訛りのないスペイン語のおかげか英語字幕のせいかは分からない。

por Andrés

/images/2015/04/2078142c6ad9195ebfe8cd9cd3597eed.png/images/2015/04/2078142c6ad9195ebfe8cd9cd3597eed-150x39.pngAndrés映画・テレビ原題 Todo lo que tú quieras マドリッドに暮らす平凡な家族、レオ、アリシア、4才の娘ダフィネ。アリシアの突然の死でレオが男手ひとつで子供を育てることになる。ダフィネはレオに母の姿を求める。娘のためにレオは自宅では女装して母親を演じる。やがてダフィネはレオを「ママ」と呼ぶようになり、学校でも母親が生きていると言うようになる。ゲームのつもりで母親を演じていたレオは驚き、ダフィネに自分を「パパ」と呼ばせようとするのだが、ダフィネは「ママ」としか呼ばない。ダフィネが望むならと、レオは学校への送迎でも女装して母親を演じるようになる。ある日、レオは若者の集団に襲われて袋叩きにあい入院する。その間にダフィネは遠方にある死んだアリシアの実家に引き取られて教会の経営する学校に転校させられる。退院したレオが女装してダフィネを迎えに行くと、ダフィネは大喜びで抱きついてくる。帰途に泊まったホテルで、ダフィネは「家に帰ったらパパに会いたい」と言い出す。レオが「じゃあ、カツラをとって化粧を落とし、パパに戻ろうか」と尋ねるとダフィネは肯く。そして「ママに会いたいときは目を閉じてママのことを考えればいいから」と言う。 娘を深く愛する父親の必死さがよく描かれているが、このままで行くとダフィネがやがてショックを受けて混乱することになるのではと心配していた。しかし子どもは自分で母親の死を消化し、父親の困惑を乗り越えて成長していた。 同性愛者への偏見・差別と理解といった現代的題材も出てはいるが、あくまでも主題は子供の成長。「汚れなき悪戯」や「ミツバチのささやき」などには及ばないが、子役の視線がすばらしい。 今回はスペイン語、マドリードが舞台なので早口ではあるが聞き取りやすい。英語の字幕付きで、ついつい字幕を読んでしまう。7~8割は理解できたが、それが訛りのないスペイン語のおかげか英語字幕のせいかは分からない。 por Andrés退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)