国立劇場で文楽「冥途の飛脚」を観た。文楽を生で見るのは初めて。筋は前もって現代語訳を読んでいたし、公演中も舞台両袖に字幕が出されていたので、十分理解できた。一週間ほど前に思いついてネットで調べてみたら、なぜか中央より少し前方にぽっかりと2席だけ空いていたのを入手できたので、幸い良い席だった。

「冥途の飛脚」は、話としてはつまらないものだ。封建社会の主従関係や家族制度のしがらみで、というような要素もなく、単に女郎に入れあげた男が店の金を使い込んでどうにもならなくなって二人で逃避行、というもの。

文楽そのものは、それなりに楽しめるものだったが、私にとっては浄瑠璃、つまり語りと三味線だけで十分のような気がした。たとえて言えば、小説だけで十分なのに、わざわざそれを劇画にして読ませられているようなもの。文字を追うだけで喚起されるイメージを、絵を見せられることでイメージが限定され、想像の飛翔が妨げられるのだ。

もちろん人形の動きの中に込められたら感情などを楽しむのが文楽の醍醐味なのかもしれないが、私にとってはやはり人形は余計であった。これはあくまでも好みの問題で、本の世界でも小説は読んでもコミックは読まないという私の嗜好の反映でしかないのだが。

por Andrés

/images/2017/02/bfe54c36cb1cf8acabedd9ba2fc0bc24-644x911.jpg/images/2017/02/bfe54c36cb1cf8acabedd9ba2fc0bc24-150x150.jpgAndrés文化・芸術国立劇場で文楽「冥途の飛脚」を観た。文楽を生で見るのは初めて。筋は前もって現代語訳を読んでいたし、公演中も舞台両袖に字幕が出されていたので、十分理解できた。一週間ほど前に思いついてネットで調べてみたら、なぜか中央より少し前方にぽっかりと2席だけ空いていたのを入手できたので、幸い良い席だった。 「冥途の飛脚」は、話としてはつまらないものだ。封建社会の主従関係や家族制度のしがらみで、というような要素もなく、単に女郎に入れあげた男が店の金を使い込んでどうにもならなくなって二人で逃避行、というもの。 文楽そのものは、それなりに楽しめるものだったが、私にとっては浄瑠璃、つまり語りと三味線だけで十分のような気がした。たとえて言えば、小説だけで十分なのに、わざわざそれを劇画にして読ませられているようなもの。文字を追うだけで喚起されるイメージを、絵を見せられることでイメージが限定され、想像の飛翔が妨げられるのだ。 もちろん人形の動きの中に込められたら感情などを楽しむのが文楽の醍醐味なのかもしれないが、私にとってはやはり人形は余計であった。これはあくまでも好みの問題で、本の世界でも小説は読んでもコミックは読まないという私の嗜好の反映でしかないのだが。 por Andrés退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)