ホテルと長崎駅に挟まれたショッピングビルのミスタードーナツで朝食。

歩いて日本26聖人殉教記念碑へ。

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老人から子供まで、京都から歩いてここまで連れてこられ処刑された人々。神や天国を信じた人々にとっては死は恐怖ではなく、殉教は喜びだったのかもしれない。

隣接する記念館に行く。切支丹時代の宣教師などの手紙類、メダイ、かくれキリシタンのマリア観音像など。

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中庭に展示されている墓碑。

潜伏キリシタンの墓石で、当時は幕府の厳しいキリシタン取締りと仏教による宗教統制の中で潜伏キリシタンは墓石に仏教式石塔を用い、戒(法)名を刻まなければならなかったが、この墓石は戒(法)名のない伏碑で、長崎代官の取壊し命令にもかかわらず今日まで残ったもののようだ。その後は、切石伏碑の墓石を作らず、また仏教式石塔も建てず、野石を伏臥する習俗に代わったとのこと。信仰弾圧に対する潜伏キリシタンの抵抗心理を物語る貴重な物だそうだ。

後刻訪れた私の父の家系の墓はこの墓石と同じ浦上の「経の峰墓地」にあった。

サント・ドミンゴ教会跡資料館へ。

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桜町小学校校舎建設工事のために行われた発掘調査で出土した、江戸時代初期の「サント・ドミンゴ教会」の遺構と、それに続く長崎代官末次・高木屋敷時代のものも展示されている。

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昼食をとりに「吉宗(よっそう)」に向かう途中で眼鏡橋を通る。ちょうど昼休み時間帯で、両側の遊歩道にはのんびり歩く人やベンチで休む姿が見られる。

吉宗本店の前には短いが行列ができている。短いと思ったのは大間違いで、少し進んで店内に入ると、2階への階段に列が続いていた。幸いカウンター席がすぐに空いて私たちはあまり待つことなく席に着けたが。

ここは茶わん蒸しで有名な店。母たちが長崎に行ってくるとこの吉宗のことを話していたのを思い出す。私はすっかり忘れていたのだが、この旅行の直前に従妹がこの店のことを話してくれたので思い出した次第。

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茶わん蒸しと蒸し寿司。どこでも添え物のような扱いの茶わん蒸しが、ここでは主役で丼にたっぷり。小さな茶碗でしか供されたことのない茶わん蒸しが、ここでは丼蒸し。あっさりした料理なので量があっても苦にはならない。蒸し寿司は三色ご飯を文字通り蒸したもの。ご飯は酢飯。

少し時間があるので「長崎出島ワーフ」2階にある「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター」へ行き、五島の潜伏キリシタン関連遺産の情報をもらう。中には見学に事前予約の必要なところ、やはり予約の必要なツアーなどもある。今夜予定を検討して明日にでも予約しよう。

ホテルに戻り部屋で一休みしてからロビーに下りる。赤いフリースの人物は一人だけなので迷わず従兄弟を見つけることができた。60年ぶり、ほとんど初対面同然の再会。

最初に父の家系の墓に連れて行ってくれた。

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墓石には「○○家の墓」、側面には「昭和53年 ○○◇◇ ○○□□ 建立」、墓誌には「○○家霊名塔」。列記されているのは

イナリシヨ○○近蔵 安政元年9月15日 50才 (1804~1854)(私の高祖父の父?)

ジヨアンナ○○ミツ 明治24年6月6日 83才 (1808~1891)(高祖父の母?)

トーマス○○惣十 明治元年8月15日 36才 (1832~1868)(高祖父 惣次郎の祖父?あるいは惣次郎の父?)

ドミナ○○スミ 大正10年11月5日 87才  (1834~1921)(高祖母 惣次郎の祖母?あるいは惣次郎の母?)

アンドレア○○惣次郎 昭和31年5月2日 76才 (1880~1956)(祖父)

クララ○○スガ 昭和27年5月27日 76才  (1876~1952)(祖母)

イサベリナ○○シズ子 明治44年7月5日 4才 (1907~1911)(伯母?)

マリア○○チエ子 大正11年4月4日 13才 (1909~1922)(伯母?)

マリア○○シズエ 大正11年4月11日 11才  (1911~1922)(伯母?)

マリア○○シズヱ 平成13年12月16日 79才 (1922~2001)(叔母 □□の妻)

ペトロ○○□□ 平成29年4月1日 100才  (1917~2017)(叔父)

キリスト教禁止政策が終わったのは明治6年1873年。

惣十は明治元年、近蔵は安政元年に死亡していて洗礼名も持っているのだから潜伏キリシタンだったのは確実だ。

祖父惣次郎の代に長崎市山里町から佐世保市に転籍しているが、山里町は浦上天主堂の裏手である。江戸時代末~明治初期に「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン弾圧が行われた。浦上から3394名のキリシタンが全国各地に配流され、うち662名が命を落とした。ミツやスミが流された者の中にいた可能性はある。

帰郷後、キリシタンたちは浦上教会を建てた。 

一方、惣次郎の母は髙谷フミという名だが、髙谷家は江戸時代に浦上の庄屋だった。そして毎年自宅で絵踏みを行なってキリシタン弾圧を積極的に行っていたようだ。明治になるころに没落し、やがてその屋敷や地所は売りに出され、キリシタンたちがそこを買って教会を建てた。それが浦上天主堂だ。

庄屋だった髙谷家と惣次郎の母の髙谷フミとがつながりがあるのかどうかは分からないが、一族だとすればキリシタンを弾圧した側と弾圧されたキリシタンが血縁となったことになる。

経の峰墓地は水道がなく、墓の管理も大変だそうだ。それでも荒れたところは非常に少なく、多くは十字架のある墓だが、なかには戒名の刻まれた仏教者のものもある。

刻まれた文字に金色を塗るのは宗派に関わらず行なわれる長崎の習慣だそうだ。

坂を下って浦上教会へ。爆心地に近いため原爆で破壊され、現在のは再建されたもの。17時を過ぎていたので残念ながら中には入れない。

さらに下って平和公園へ。ここの平和祈念像は好きではない。おしゃべりしながら公園内を少し散策。

平和公園の停留所から市電に乗り、思案橋へ移動。ここで従姉と落ち合い、少し歩いて「おがた鮨」へ。

ここで刺身や寿司をつまみながら4人で歓談。私が少しは知っている親戚のこと、名前だけは知っていた人のこと、名前も知らなかった人のことなどを色々と教えてもらう。父方の親戚とは私自身は全くと言っていいほど付き合いがなく、会ったのも幼い頃のことでほとんど記憶にない。唯一はっきり覚えているのは、祖父の葬儀で佐世保に行った時、刀の取り合いで従兄弟とけんかしたこと。従兄弟は喧嘩のことを覚えていなかったが、刀があったことは覚えていた。その後の刀の行方は分からないそうだ。一方、従兄弟は大阪に来て私がバイオリンを弾くのを見て驚いたことを覚えているとのこと。私は全く覚えていない。私の姉は従姉と遊んだことを覚えていたのだが。佐世保の家のこと、その前の家のことなど初耳のことが多い。昔の写真を見せてもらいながら教えてもらった。

この店の刺身は実に新鮮でおいしい。長崎だからすべての店が新鮮というわけではないだろうが、さすが長崎と思わされるもの。こんなにおいしい魚を最初に食べてしまうと、この後の旅が心配になる。18時ごろから22時ごろまで話し込んでしまった。

思案橋の電停で別れたが、Ameliaと従姉はしばらく手を取り合って、とても初対面とは思えないと喜びあっていた。

従兄弟はワインが苦手とのことだったので、土産に買ってきたワインは渡すのをやめにし、急遽近くの酒屋に行ってウイスキーを購入。

この辺りは歓楽街で、この酒屋も歓楽街の店を相手にしているらしく、ウイスキーを贈答用にする箱や包みもなくクッション材で巻いてくれただけ。

市電で長崎駅へ戻り、ホテルに帰り着いたのは22時45分だった。

来る前はどんな付き合い方ができるのか少し心配していたが、ほとんど初対面に近いにもかかわらず旧知の間柄のように歓待してくれ、話も弾んで楽しい時が過ごせた。従兄弟や従姉の人柄に感謝。

Andrés国内旅行ホテルと長崎駅に挟まれたショッピングビルのミスタードーナツで朝食。 歩いて日本26聖人殉教記念碑へ。 老人から子供まで、京都から歩いてここまで連れてこられ処刑された人々。神や天国を信じた人々にとっては死は恐怖ではなく、殉教は喜びだったのかもしれない。 隣接する記念館に行く。切支丹時代の宣教師などの手紙類、メダイ、かくれキリシタンのマリア観音像など。 中庭に展示されている墓碑。 潜伏キリシタンの墓石で、当時は幕府の厳しいキリシタン取締りと仏教による宗教統制の中で潜伏キリシタンは墓石に仏教式石塔を用い、戒(法)名を刻まなければならなかったが、この墓石は戒(法)名のない伏碑で、長崎代官の取壊し命令にもかかわらず今日まで残ったもののようだ。その後は、切石伏碑の墓石を作らず、また仏教式石塔も建てず、野石を伏臥する習俗に代わったとのこと。信仰弾圧に対する潜伏キリシタンの抵抗心理を物語る貴重な物だそうだ。 後刻訪れた私の父の家系の墓はこの墓石と同じ浦上の「経の峰墓地」にあった。 サント・ドミンゴ教会跡資料館へ。 桜町小学校校舎建設工事のために行われた発掘調査で出土した、江戸時代初期の「サント・ドミンゴ教会」の遺構と、それに続く長崎代官末次・高木屋敷時代のものも展示されている。 昼食をとりに「吉宗(よっそう)」に向かう途中で眼鏡橋を通る。ちょうど昼休み時間帯で、両側の遊歩道にはのんびり歩く人やベンチで休む姿が見られる。 吉宗本店の前には短いが行列ができている。短いと思ったのは大間違いで、少し進んで店内に入ると、2階への階段に列が続いていた。幸いカウンター席がすぐに空いて私たちはあまり待つことなく席に着けたが。 ここは茶わん蒸しで有名な店。母たちが長崎に行ってくるとこの吉宗のことを話していたのを思い出す。私はすっかり忘れていたのだが、この旅行の直前に従妹がこの店のことを話してくれたので思い出した次第。 茶わん蒸しと蒸し寿司。どこでも添え物のような扱いの茶わん蒸しが、ここでは主役で丼にたっぷり。小さな茶碗でしか供されたことのない茶わん蒸しが、ここでは丼蒸し。あっさりした料理なので量があっても苦にはならない。蒸し寿司は三色ご飯を文字通り蒸したもの。ご飯は酢飯。 少し時間があるので「長崎出島ワーフ」2階にある「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター」へ行き、五島の潜伏キリシタン関連遺産の情報をもらう。中には見学に事前予約の必要なところ、やはり予約の必要なツアーなどもある。今夜予定を検討して明日にでも予約しよう。 ホテルに戻り部屋で一休みしてからロビーに下りる。赤いフリースの人物は一人だけなので迷わず従兄弟を見つけることができた。60年ぶり、ほとんど初対面同然の再会。 最初に父の家系の墓に連れて行ってくれた。 墓石には「○○家の墓」、側面には「昭和53年 ○○◇◇ ○○□□ 建立」、墓誌には「○○家霊名塔」。列記されているのは イナリシヨ○○近蔵 安政元年9月15日 50才 (1804~1854)(私の高祖父の父?) ジヨアンナ○○ミツ 明治24年6月6日 83才 (1808~1891)(高祖父の母?) トーマス○○惣十 明治元年8月15日 36才 (1832~1868)(高祖父 惣次郎の祖父?あるいは惣次郎の父?) ドミナ○○スミ 大正10年11月5日 87才  (1834~1921)(高祖母 惣次郎の祖母?あるいは惣次郎の母?) アンドレア○○惣次郎 昭和31年5月2日 76才 (1880~1956)(祖父) クララ○○スガ 昭和27年5月27日 76才  (1876~1952)(祖母) イサベリナ○○シズ子 明治44年7月5日 4才 (1907~1911)(伯母?) マリア○○チエ子 大正11年4月4日 13才 (1909~1922)(伯母?) マリア○○シズエ 大正11年4月11日 11才  (1911~1922)(伯母?) マリア○○シズヱ 平成13年12月16日 79才 (1922~2001)(叔母 □□の妻) ペトロ○○□□ 平成29年4月1日 100才  (1917~2017)(叔父) キリスト教禁止政策が終わったのは明治6年1873年。 惣十は明治元年、近蔵は安政元年に死亡していて洗礼名も持っているのだから潜伏キリシタンだったのは確実だ。 祖父惣次郎の代に長崎市山里町から佐世保市に転籍しているが、山里町は浦上天主堂の裏手である。江戸時代末~明治初期に「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン弾圧が行われた。浦上から3394名のキリシタンが全国各地に配流され、うち662名が命を落とした。ミツやスミが流された者の中にいた可能性はある。 帰郷後、キリシタンたちは浦上教会を建てた。  一方、惣次郎の母は髙谷フミという名だが、髙谷家は江戸時代に浦上の庄屋だった。そして毎年自宅で絵踏みを行なってキリシタン弾圧を積極的に行っていたようだ。明治になるころに没落し、やがてその屋敷や地所は売りに出され、キリシタンたちがそこを買って教会を建てた。それが浦上天主堂だ。 庄屋だった髙谷家と惣次郎の母の髙谷フミとがつながりがあるのかどうかは分からないが、一族だとすればキリシタンを弾圧した側と弾圧されたキリシタンが血縁となったことになる。 経の峰墓地は水道がなく、墓の管理も大変だそうだ。それでも荒れたところは非常に少なく、多くは十字架のある墓だが、なかには戒名の刻まれた仏教者のものもある。 刻まれた文字に金色を塗るのは宗派に関わらず行なわれる長崎の習慣だそうだ。 坂を下って浦上教会へ。爆心地に近いため原爆で破壊され、現在のは再建されたもの。17時を過ぎていたので残念ながら中には入れない。 さらに下って平和公園へ。ここの平和祈念像は好きではない。おしゃべりしながら公園内を少し散策。 平和公園の停留所から市電に乗り、思案橋へ移動。ここで従姉と落ち合い、少し歩いて「おがた鮨」へ。 ここで刺身や寿司をつまみながら4人で歓談。私が少しは知っている親戚のこと、名前だけは知っていた人のこと、名前も知らなかった人のことなどを色々と教えてもらう。父方の親戚とは私自身は全くと言っていいほど付き合いがなく、会ったのも幼い頃のことでほとんど記憶にない。唯一はっきり覚えているのは、祖父の葬儀で佐世保に行った時、刀の取り合いで従兄弟とけんかしたこと。従兄弟は喧嘩のことを覚えていなかったが、刀があったことは覚えていた。その後の刀の行方は分からないそうだ。一方、従兄弟は大阪に来て私がバイオリンを弾くのを見て驚いたことを覚えているとのこと。私は全く覚えていない。私の姉は従姉と遊んだことを覚えていたのだが。佐世保の家のこと、その前の家のことなど初耳のことが多い。昔の写真を見せてもらいながら教えてもらった。 この店の刺身は実に新鮮でおいしい。長崎だからすべての店が新鮮というわけではないだろうが、さすが長崎と思わされるもの。こんなにおいしい魚を最初に食べてしまうと、この後の旅が心配になる。18時ごろから22時ごろまで話し込んでしまった。 思案橋の電停で別れたが、Ameliaと従姉はしばらく手を取り合って、とても初対面とは思えないと喜びあっていた。 従兄弟はワインが苦手とのことだったので、土産に買ってきたワインは渡すのをやめにし、急遽近くの酒屋に行ってウイスキーを購入。...退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)