あいちトリエンナーレで行われていた「表現の不自由展・その後」が3日目にして中止された。日本における表現の自由が明白に侵害された事件だ。

まず、河村名古屋市長の言動が批判されるべきだろう。彼は「表現の自由」を全く理解していない。河村氏は「日本人の心を踏みにじるものだ。即刻中止していただきたい」と発言したそうだが、勝手に日本人の心を十把一絡げにしてもらいたくない。かれが主に指しているのは「平和の少女像」で、この作品を見て不愉快に感じる人がいるのは事実だろうが、そうは思わない人がいるのも事実だ。芸術、特に現代芸術の中には不愉快にさせることを意図した作品も多い。河村氏は印象派の風景画だけを展示すべきとでも思っているのだろうか。そもそも表現の自由とは、権力者や多数派を批判し不愉快にする自由であって、権力者や多数派を気持ち良くさせる自由などは戦前戦中の日本にも、ナチスドイツにも、現在の北朝鮮にもある。河村氏は、表層の意識では北朝鮮を嫌いだろうが、深層意識、体質、自分では気づいていないかもしれないが本音においては金正恩と全く同じ志向の持ち主なのだ。同様のことは菅官房長官や松井大阪市長などにも言える。

ガソリンを持ち込むだとか職員に対して嫌がらせをするといったような脅迫行為が展示中止の直接の理由とされている。津田監督や大村愛知県知事は安全な運営ができないとの判断から中止を決断したとのこと。安全を第一に考えるのは当然かもしれないが、中止する以外にも方法はあったのではないか。展示の安全が保障できないとすれば、安全を担うべき警察は無能だと言っているに等しい。知事は展示の中止ではなく、県警に万全の警備を依頼すべきだった。

脅迫者たちや河村市長などのような者の希望に沿う形になってしまい、まさに日本は「表現の不自由展・その後・さらに表現の不自由」な国になってしまう。表現の自由が認められない国を「美しい国」などと思うのは誰なのだろうか。

「平和の少女像」は、写真でしか見ていないが、その限りでは駄作だとしか思わない。しかしそれは見て言えることであって、見もしないで作品を評価することなどできはしない。この作品が政治的だから駄目だという人もいるが、政治的でないものなどどこに存在するのか。そう言っている人は実は単に自分の政治的意見に反するから駄目と言っているだけなのではないか。

作品を直視したうえで、それを堂々と批判し批評し評価するという当たり前のことが、なぜできないのだろうか。

Andrés政治・経済・国際文化・芸術日記・コラム・つぶやきあいちトリエンナーレで行われていた「表現の不自由展・その後」が3日目にして中止された。日本における表現の自由が明白に侵害された事件だ。 まず、河村名古屋市長の言動が批判されるべきだろう。彼は「表現の自由」を全く理解していない。河村氏は「日本人の心を踏みにじるものだ。即刻中止していただきたい」と発言したそうだが、勝手に日本人の心を十把一絡げにしてもらいたくない。かれが主に指しているのは「平和の少女像」で、この作品を見て不愉快に感じる人がいるのは事実だろうが、そうは思わない人がいるのも事実だ。芸術、特に現代芸術の中には不愉快にさせることを意図した作品も多い。河村氏は印象派の風景画だけを展示すべきとでも思っているのだろうか。そもそも表現の自由とは、権力者や多数派を批判し不愉快にする自由であって、権力者や多数派を気持ち良くさせる自由などは戦前戦中の日本にも、ナチスドイツにも、現在の北朝鮮にもある。河村氏は、表層の意識では北朝鮮を嫌いだろうが、深層意識、体質、自分では気づいていないかもしれないが本音においては金正恩と全く同じ志向の持ち主なのだ。同様のことは菅官房長官や松井大阪市長などにも言える。 ガソリンを持ち込むだとか職員に対して嫌がらせをするといったような脅迫行為が展示中止の直接の理由とされている。津田監督や大村愛知県知事は安全な運営ができないとの判断から中止を決断したとのこと。安全を第一に考えるのは当然かもしれないが、中止する以外にも方法はあったのではないか。展示の安全が保障できないとすれば、安全を担うべき警察は無能だと言っているに等しい。知事は展示の中止ではなく、県警に万全の警備を依頼すべきだった。 脅迫者たちや河村市長などのような者の希望に沿う形になってしまい、まさに日本は「表現の不自由展・その後・さらに表現の不自由」な国になってしまう。表現の自由が認められない国を「美しい国」などと思うのは誰なのだろうか。 「平和の少女像」は、写真でしか見ていないが、その限りでは駄作だとしか思わない。しかしそれは見て言えることであって、見もしないで作品を評価することなどできはしない。この作品が政治的だから駄目だという人もいるが、政治的でないものなどどこに存在するのか。そう言っている人は実は単に自分の政治的意見に反するから駄目と言っているだけなのではないか。 作品を直視したうえで、それを堂々と批判し批評し評価するという当たり前のことが、なぜできないのだろうか。退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)