世の中は、7日に政府が出した「緊急事態宣言」の話題一色のようだ。宣言を出すのが遅すぎる、休業要請の範囲はどこまでだ、補償はないのか、30万円の給付金では少ない等々、様々な意見が飛び交っている。そして何より、いつまでこれが続き、これで新型コロナは終息するのかといった懸念に多くの人がとらわれているだろう。
それらはひとまず措いて、ここで「緊急事態宣言」「非常事態宣言」「戒厳令」等の国家による私権制限について考えてみたい。
現在発せられている「緊急事態宣言」は「新型インフルエンザ等対策特別措置法(以下特措法)」の改正法に基くもので、欧米諸国でのものと比べて強制力が弱いとされているが、それでも私権制限の伴うものであることは確かで、その延長線上にある「非常事態宣言」や「戒厳令」、最終的には「独裁」も視野に入れて考える必要がある。
伝染病の蔓延時の政府の対応として、何らかの私権制限が必要とされることは否定できない。そこで問題となるのが、そうした私権制限を永続化させない、言い換えれば独裁への道を開かない確実な方途があるのかだ。それを時の政権の「誠実さ」だとか「自制」などに拠るのは無意味なことは自明だろう。また、「民主的選挙」に求めるのも、ナチスの例を持ち出すまでもなく、「誠実さ」などに依るのと同程度に無益だろう。さらに、古代ローマ共和国の独裁官のように任期を6カ月という短期間に限定していても、帝政への道を断つことはできなかった。
どのような権力であれ、権力にとっての至上の目的は権力の維持強化永続化であれば、平時においても常に権力による不要な私権制限の危険はある。ましてや非常時には、権力側からの私権制限の欲求の肥大化と同時に、人々の側からも私権を制限してでも非常事態に対処してほしいとの要求が高まる。
こうした中で非常時の私権制限を私権制限の常態化、そして独裁への道を開くことにつなげない方法とは何だろうか。実のところ決定的手段はないのかもしれない。多くの人が考えてきたはずだし、妙案があれば採用したはずだろう。しかし世界を見渡してみても、この制度なら人々の権利が損なわれることはないといったものは見当たらない。三権分立はその回答として採用され、有効に機能した場合が多い。それでも常に権力の肥大化と独走の危険がなくなったわけではない。いわゆる民主主義諸国のいくつかの最近の動向を見ると、三権分立は危うい状況にあると言わなければならないし、そのまま進めば独裁への道が開けてしまうことを否定できない。
だからこそ権力の暴走を抑制するのに有用な方法をあらためて考えなければならない。日本から見ていると、西欧諸国にはまだ権力の暴走の気配はないように思える。しかしそれは情報の少なさから来ているのかも知れないし、情報の多い日本やアメリカには三権分立の切り崩しが進んでいる現状がある。
そんな中で当面考えられる方策は、あまりにもありふれたものではあるが、次の諸点ではないだろうか。
・責任の所在を常に明確にすること。
・政策の決定過程を常に公開し人々が点検できるようにすること。
・特定の権力の強化を許容する場合には、必ずそれに対抗する権力も同程度に強化すること。
・私権を制限する場合は、その範囲と期間をあらかじめ明確に限定し、権力が恣意的にそれを拡大することを厳格に規制すること。
・更に、現在最も困難なことになっているが、人々が情報の正確性を冷静に判断し、その上で理性的に判断すること。
結局、特に最後の項目に顕著なように、人々の理性に拠るという不確実なものに行きついてしまう。権力分立というシステムで抑止した権力の暴走だが、人間社会のことであれば、最後は人間に左右されてしまう。だからこそ私たちは常に権力の動向を注視し、常に批判的に検証し続けなければならない。
では今の日本はどうなのだろうか。非常時だから批判はやめて一致団結して難局に対処しよう、少々欠点があってもとにかく決定されたことを守るのが第一・・・。こういった声が上がってきているし、今後も状況が悪化すれば一層大きくなるだろう。しかし必要なのは、決められたから指示されたことだから従うのではなく、自ら考え判断して行動するということだ。それだけが現時点で権力の暴走を防ぐ手段だろう。

por Andrés

Andrés政治・経済・国際世の中は、7日に政府が出した「緊急事態宣言」の話題一色のようだ。宣言を出すのが遅すぎる、休業要請の範囲はどこまでだ、補償はないのか、30万円の給付金では少ない等々、様々な意見が飛び交っている。そして何より、いつまでこれが続き、これで新型コロナは終息するのかといった懸念に多くの人がとらわれているだろう。 それらはひとまず措いて、ここで「緊急事態宣言」「非常事態宣言」「戒厳令」等の国家による私権制限について考えてみたい。 現在発せられている「緊急事態宣言」は「新型インフルエンザ等対策特別措置法(以下特措法)」の改正法に基くもので、欧米諸国でのものと比べて強制力が弱いとされているが、それでも私権制限の伴うものであることは確かで、その延長線上にある「非常事態宣言」や「戒厳令」、最終的には「独裁」も視野に入れて考える必要がある。 伝染病の蔓延時の政府の対応として、何らかの私権制限が必要とされることは否定できない。そこで問題となるのが、そうした私権制限を永続化させない、言い換えれば独裁への道を開かない確実な方途があるのかだ。それを時の政権の「誠実さ」だとか「自制」などに拠るのは無意味なことは自明だろう。また、「民主的選挙」に求めるのも、ナチスの例を持ち出すまでもなく、「誠実さ」などに依るのと同程度に無益だろう。さらに、古代ローマ共和国の独裁官のように任期を6カ月という短期間に限定していても、帝政への道を断つことはできなかった。 どのような権力であれ、権力にとっての至上の目的は権力の維持強化永続化であれば、平時においても常に権力による不要な私権制限の危険はある。ましてや非常時には、権力側からの私権制限の欲求の肥大化と同時に、人々の側からも私権を制限してでも非常事態に対処してほしいとの要求が高まる。 こうした中で非常時の私権制限を私権制限の常態化、そして独裁への道を開くことにつなげない方法とは何だろうか。実のところ決定的手段はないのかもしれない。多くの人が考えてきたはずだし、妙案があれば採用したはずだろう。しかし世界を見渡してみても、この制度なら人々の権利が損なわれることはないといったものは見当たらない。三権分立はその回答として採用され、有効に機能した場合が多い。それでも常に権力の肥大化と独走の危険がなくなったわけではない。いわゆる民主主義諸国のいくつかの最近の動向を見ると、三権分立は危うい状況にあると言わなければならないし、そのまま進めば独裁への道が開けてしまうことを否定できない。 だからこそ権力の暴走を抑制するのに有用な方法をあらためて考えなければならない。日本から見ていると、西欧諸国にはまだ権力の暴走の気配はないように思える。しかしそれは情報の少なさから来ているのかも知れないし、情報の多い日本やアメリカには三権分立の切り崩しが進んでいる現状がある。 そんな中で当面考えられる方策は、あまりにもありふれたものではあるが、次の諸点ではないだろうか。 ・責任の所在を常に明確にすること。 ・政策の決定過程を常に公開し人々が点検できるようにすること。 ・特定の権力の強化を許容する場合には、必ずそれに対抗する権力も同程度に強化すること。 ・私権を制限する場合は、その範囲と期間をあらかじめ明確に限定し、権力が恣意的にそれを拡大することを厳格に規制すること。 ・更に、現在最も困難なことになっているが、人々が情報の正確性を冷静に判断し、その上で理性的に判断すること。 結局、特に最後の項目に顕著なように、人々の理性に拠るという不確実なものに行きついてしまう。権力分立というシステムで抑止した権力の暴走だが、人間社会のことであれば、最後は人間に左右されてしまう。だからこそ私たちは常に権力の動向を注視し、常に批判的に検証し続けなければならない。 では今の日本はどうなのだろうか。非常時だから批判はやめて一致団結して難局に対処しよう、少々欠点があってもとにかく決定されたことを守るのが第一・・・。こういった声が上がってきているし、今後も状況が悪化すれば一層大きくなるだろう。しかし必要なのは、決められたから指示されたことだから従うのではなく、自ら考え判断して行動するということだ。それだけが現時点で権力の暴走を防ぐ手段だろう。 por Andrés退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)