8時前に朝食にでかける。5分ほど歩いたところのタリーズコーヒーで朝食セット。

例年は2日・3日の二日間で行われる「おはら祭」、今年はコロナの影響で大幅に縮小し今日の午前中だけだそうだが、朝から通りでは屋台の準備が始まっていた。

ホテルに戻り9時10分にチェックアウト。Ameliaにも見せるために先ず鶴丸高校へ。一周してみるが、やはり思い出せるようなものはない。さらに下宿のあったあたりにも行ってみるが、「この付近」という以上の感触は得られない。

市街地を抜けて「仙厳園」に行く。昔は「磯庭園」と呼んでいたと思うが、島津家の別邸。入ってすぐ左手にオリエンテーションセンターがあり、仙厳園の概略を説明した展示がある。部屋の真ん中に反射炉の模型があり、係の人が説明してくれた。石炭以前には「白炭」という火力の強い木炭を、作り方を紀州から教えてもらって使っていたそうだ。鉄鉱石は藩内でとれたものや、やはり藩内の砂鉄を使ったとのこと。この反射炉で溶かした鉄で大砲を作ったが、何門作ったか、その大砲がどうなったのか、反射炉がいつまで使われたのかはわかっていないそうだ。さすが日本のお家芸、記録は残さないのだと苦笑してしまった。

センターを出ると目の前に反射炉跡。石組みの下部だけがある。

庭園を一巡するが、よく整備された日本庭園で、石灯篭に独特のものがいくつかある。

建物は正門、錫門、御殿があるが、錫門だけが江戸時代のもの。錫製の瓦はずっしりと重かった。

園内には、土産物店や飲食店が非常に多い。その結果、テーマパークのようになってしまっている。見学者の利便にはなるだろうが、本末転倒だ。

隣接した尚古集成館の本館と別館に入る。ここは日本最古の洋式機械工場だった建物で、島津家の歴史とともに工場の機械や製品が展示されている。薩摩藩がいち早く富国強兵殖産興業に取り組んでいた様子がわかる。

仙厳園に戻り昼食にする。「かごんま丼」というチャーシュー丼のようなものと、「鶏飯御膳」という奄美地方の郷土料理。甘じょっぱい濃いめの味。店の大きなガラス窓越しに桜島が見え、火口から噴煙が上がっているのが観察できた。

鹿児島には2~3歳のころにも住んでいたが、当時海水浴に行った写真が残っている磯海水浴場がすぐそばに見えた。今日は快晴だが、さすがに海水浴客はいなかった。

一路指宿に向かう。一般道を走って行くと、途中から左に海、右に指宿線の線路が平行する。見覚えのある地名、景色が少しずつ増えてくる。指宿は中学3年の1年間暮らし、高校1年の1年間は下宿していた鹿児島市から時々戻っていた町。

市内に入ると国道沿いは見覚えのない風景になった。

通っていた「南指宿中学校」へ行ってみる。休日なのでがらんとしているし、ここももちろん校舎は建て替えられているが、正門から入ってみると建物の配置が昔とそんなに変わっていないように思える。当時は自転車通学していたが、道は未舗装だった。今はもちろん舗装されて車の通行量も多い。通学路を自宅のあった方向へ進んでみる。途中の三差路の一角に級友の古い木造の家があったが、その場所にはコンクリートの古く小さな建物がある。さらに進むと、当時この付近ではたった1軒の小さな食品店があったらしき所に今も食料品店があった。

自宅は国立病院の職員住宅だったが、病院そのものが大きく様変わりし、思い出せる部分はなかった。当時の職員住宅は木造平屋建ての古い家で、庭に枇杷の木があって小粒の実がたくさんついて、人生で最も枇杷を大量に食べた1年だった。バナナも生えていて、小さいバナナが実り、収穫してしばらく置いて黄色く熟すのを待ってから食べたものだ。パッションフルーツもあった。

指宿駅に行ってみる。駅舎は当然建て替わり、駅前も全く面影はない。当時は小さな書店が1軒あったが、見当たらなかった。当時は小さな書店でも岩波・角川・新潮文庫があって役に立ったものだ。地方の駅前書店、今はほとんど潰れてしまったし、わずかに残っていても雑誌が並んでいるだけという状態だが。

「指宿白水館」へ。昔からある指宿随一の宿。昔は存在は知っていたが、利用することもなかった。到着すると荷物を下ろした後、駐車場に行くと、案内係が4人もいる。大きな旅館だが、駐車場が何百台分もあるわけではないのだから人員過剰。それで職を得ている人がいるのだから悪いことではないが。

チェックインするが、客が次々にやって来る。団体客もいて添乗員から説明を受けている。部屋で少しだけ休み、早速お目当ての「砂蒸し」(砂風呂)に行く。専用の浴衣に着替えて砂場に行くと、平らにならした砂の上に仰向けになる。係の人が砂をかけてくれるが、湿っているからか意外に重い。女風呂に行ったAmeliaが偶然隣に来る。砂の温度は結構高く、私は特に踵が熱く感じる。10から15分ぐらい入ってくださいとのことだったが、10分ほどで汗をたくさんかいたので出る。出る時は自分で砂を除けて起き上がる。浴衣を脱ぎ、シャワーで砂を流してから大浴場に行く。あとは普通の入浴。

砂風呂は確かに気持ち良かった。指宿に住んでいたころ、砂浜に行くと温かいところがあって足だけを砂の中で温めたことはあったが、熱くはなかった。この宿のは屋内なので、熱い場所を選んでやっているのか、加熱しているのか。

「温泉サイダー」を風呂上りに飲む。特段の味はないが、炭酸は強い。

18時半から夕食。食事会場で、内容は、前菜の諸味噌豆腐、聖護院かぶら餅、鰊山椒魚、烏賊菊花寿司、真鱈白子真蒸、フォアグラ松風、床節貝、塩煎り銀杏、塩蒸しむかご。吸物。お造り。炊合。焼物。強肴。酢の物。御飯。後椀。果物。甘味。飲み物は焼酎「薩摩元禄」の水割り。焼酎は癖は強くないがアルコール度は強い。グラス1杯の水割りなので飲めたが。料理はどれも上質。刺身を一目見ただけで材料の良さが伝わってきた。給仕をしてくれた人が、今日が初日ではないかと思われるほどまだ仕事に慣れていないが、一生懸命で初々しい。昨夜も開店翌日で慣れていない店員ばかりだったが、対応も印象もずいぶん違った。

食後、館内を歩いてみる。大きな旅館で迷うほど。中庭にイルミネーションや篝火。外は少し寒くなっていた。

部屋に戻ると窓の向こうに広がる錦江湾は月明かりに照らされ、対岸の大隅半島のわずかな灯火が見える。

4年前の北九州、昨年の長崎、今回の大阪と南九州旅行で、私の生まれ育った土地を巡ってきたが、16歳までにずいぶんいろんなところに住み、引っ越し転校を繰り返したものだと、あらためて感じた。文通をしようなどと言う発想がなかったので、転校すると以前の学校での友人とは縁が切れてしまった。しかし転入生としてひどいいじめにあうこともなく、それぞれの土地に暮している間は友人もでき楽しく暮らせたのは、恵まれていたと今更ながら感じる。

指宿でもたった1年間だったが、海に魚を突きに行った友人、大みそかから開聞岳に登って新年を迎えようと計画したが大雨であきらめた仲間、遅刻ギリギリにパジャマの上に制服のズボンをはいて登校していた友、転校直後の1週間ほど休み時間の暇つぶしに本を読んでいると話しかけてきた女子・・・。鶴丸高校に進学したのは私1人だけだったため縁は薄れて行ったが、夏休みに実家に戻ると何度も一緒に海に遊びに行ったりもしたものだ。しかし彼らとも私が東京に移るとすっかり縁が切れてしまった。今回かすかに覚えている家を訪ねれば、何人かと再会できる可能性はゼロではない。しかしあまりにもかけ離れた生活を半世紀も送った後では、そこまで無理しようとは思わない。かつて暮らした場所に立ってみるだけで十分だ。

/images/2020/11/20201103_102629-scaled-700x394.jpg/images/2020/11/20201103_102629-scaled-150x150.jpgAndrés国内旅行8時前に朝食にでかける。5分ほど歩いたところのタリーズコーヒーで朝食セット。 例年は2日・3日の二日間で行われる「おはら祭」、今年はコロナの影響で大幅に縮小し今日の午前中だけだそうだが、朝から通りでは屋台の準備が始まっていた。 ホテルに戻り9時10分にチェックアウト。Ameliaにも見せるために先ず鶴丸高校へ。一周してみるが、やはり思い出せるようなものはない。さらに下宿のあったあたりにも行ってみるが、「この付近」という以上の感触は得られない。 市街地を抜けて「仙厳園」に行く。昔は「磯庭園」と呼んでいたと思うが、島津家の別邸。入ってすぐ左手にオリエンテーションセンターがあり、仙厳園の概略を説明した展示がある。部屋の真ん中に反射炉の模型があり、係の人が説明してくれた。石炭以前には「白炭」という火力の強い木炭を、作り方を紀州から教えてもらって使っていたそうだ。鉄鉱石は藩内でとれたものや、やはり藩内の砂鉄を使ったとのこと。この反射炉で溶かした鉄で大砲を作ったが、何門作ったか、その大砲がどうなったのか、反射炉がいつまで使われたのかはわかっていないそうだ。さすが日本のお家芸、記録は残さないのだと苦笑してしまった。 センターを出ると目の前に反射炉跡。石組みの下部だけがある。 庭園を一巡するが、よく整備された日本庭園で、石灯篭に独特のものがいくつかある。 建物は正門、錫門、御殿があるが、錫門だけが江戸時代のもの。錫製の瓦はずっしりと重かった。 園内には、土産物店や飲食店が非常に多い。その結果、テーマパークのようになってしまっている。見学者の利便にはなるだろうが、本末転倒だ。 隣接した尚古集成館の本館と別館に入る。ここは日本最古の洋式機械工場だった建物で、島津家の歴史とともに工場の機械や製品が展示されている。薩摩藩がいち早く富国強兵殖産興業に取り組んでいた様子がわかる。 仙厳園に戻り昼食にする。「かごんま丼」というチャーシュー丼のようなものと、「鶏飯御膳」という奄美地方の郷土料理。甘じょっぱい濃いめの味。店の大きなガラス窓越しに桜島が見え、火口から噴煙が上がっているのが観察できた。 鹿児島には2~3歳のころにも住んでいたが、当時海水浴に行った写真が残っている磯海水浴場がすぐそばに見えた。今日は快晴だが、さすがに海水浴客はいなかった。 一路指宿に向かう。一般道を走って行くと、途中から左に海、右に指宿線の線路が平行する。見覚えのある地名、景色が少しずつ増えてくる。指宿は中学3年の1年間暮らし、高校1年の1年間は下宿していた鹿児島市から時々戻っていた町。 市内に入ると国道沿いは見覚えのない風景になった。 通っていた「南指宿中学校」へ行ってみる。休日なのでがらんとしているし、ここももちろん校舎は建て替えられているが、正門から入ってみると建物の配置が昔とそんなに変わっていないように思える。当時は自転車通学していたが、道は未舗装だった。今はもちろん舗装されて車の通行量も多い。通学路を自宅のあった方向へ進んでみる。途中の三差路の一角に級友の古い木造の家があったが、その場所にはコンクリートの古く小さな建物がある。さらに進むと、当時この付近ではたった1軒の小さな食品店があったらしき所に今も食料品店があった。 自宅は国立病院の職員住宅だったが、病院そのものが大きく様変わりし、思い出せる部分はなかった。当時の職員住宅は木造平屋建ての古い家で、庭に枇杷の木があって小粒の実がたくさんついて、人生で最も枇杷を大量に食べた1年だった。バナナも生えていて、小さいバナナが実り、収穫してしばらく置いて黄色く熟すのを待ってから食べたものだ。パッションフルーツもあった。 指宿駅に行ってみる。駅舎は当然建て替わり、駅前も全く面影はない。当時は小さな書店が1軒あったが、見当たらなかった。当時は小さな書店でも岩波・角川・新潮文庫があって役に立ったものだ。地方の駅前書店、今はほとんど潰れてしまったし、わずかに残っていても雑誌が並んでいるだけという状態だが。 「指宿白水館」へ。昔からある指宿随一の宿。昔は存在は知っていたが、利用することもなかった。到着すると荷物を下ろした後、駐車場に行くと、案内係が4人もいる。大きな旅館だが、駐車場が何百台分もあるわけではないのだから人員過剰。それで職を得ている人がいるのだから悪いことではないが。 チェックインするが、客が次々にやって来る。団体客もいて添乗員から説明を受けている。部屋で少しだけ休み、早速お目当ての「砂蒸し」(砂風呂)に行く。専用の浴衣に着替えて砂場に行くと、平らにならした砂の上に仰向けになる。係の人が砂をかけてくれるが、湿っているからか意外に重い。女風呂に行ったAmeliaが偶然隣に来る。砂の温度は結構高く、私は特に踵が熱く感じる。10から15分ぐらい入ってくださいとのことだったが、10分ほどで汗をたくさんかいたので出る。出る時は自分で砂を除けて起き上がる。浴衣を脱ぎ、シャワーで砂を流してから大浴場に行く。あとは普通の入浴。 砂風呂は確かに気持ち良かった。指宿に住んでいたころ、砂浜に行くと温かいところがあって足だけを砂の中で温めたことはあったが、熱くはなかった。この宿のは屋内なので、熱い場所を選んでやっているのか、加熱しているのか。 「温泉サイダー」を風呂上りに飲む。特段の味はないが、炭酸は強い。 18時半から夕食。食事会場で、内容は、前菜の諸味噌豆腐、聖護院かぶら餅、鰊山椒魚、烏賊菊花寿司、真鱈白子真蒸、フォアグラ松風、床節貝、塩煎り銀杏、塩蒸しむかご。吸物。お造り。炊合。焼物。強肴。酢の物。御飯。後椀。果物。甘味。飲み物は焼酎「薩摩元禄」の水割り。焼酎は癖は強くないがアルコール度は強い。グラス1杯の水割りなので飲めたが。料理はどれも上質。刺身を一目見ただけで材料の良さが伝わってきた。給仕をしてくれた人が、今日が初日ではないかと思われるほどまだ仕事に慣れていないが、一生懸命で初々しい。昨夜も開店翌日で慣れていない店員ばかりだったが、対応も印象もずいぶん違った。 食後、館内を歩いてみる。大きな旅館で迷うほど。中庭にイルミネーションや篝火。外は少し寒くなっていた。 部屋に戻ると窓の向こうに広がる錦江湾は月明かりに照らされ、対岸の大隅半島のわずかな灯火が見える。 4年前の北九州、昨年の長崎、今回の大阪と南九州旅行で、私の生まれ育った土地を巡ってきたが、16歳までにずいぶんいろんなところに住み、引っ越し転校を繰り返したものだと、あらためて感じた。文通をしようなどと言う発想がなかったので、転校すると以前の学校での友人とは縁が切れてしまった。しかし転入生としてひどいいじめにあうこともなく、それぞれの土地に暮している間は友人もでき楽しく暮らせたのは、恵まれていたと今更ながら感じる。 指宿でもたった1年間だったが、海に魚を突きに行った友人、大みそかから開聞岳に登って新年を迎えようと計画したが大雨であきらめた仲間、遅刻ギリギリにパジャマの上に制服のズボンをはいて登校していた友、転校直後の1週間ほど休み時間の暇つぶしに本を読んでいると話しかけてきた女子・・・。鶴丸高校に進学したのは私1人だけだったため縁は薄れて行ったが、夏休みに実家に戻ると何度も一緒に海に遊びに行ったりもしたものだ。しかし彼らとも私が東京に移るとすっかり縁が切れてしまった。今回かすかに覚えている家を訪ねれば、何人かと再会できる可能性はゼロではない。しかしあまりにもかけ離れた生活を半世紀も送った後では、そこまで無理しようとは思わない。かつて暮らした場所に立ってみるだけで十分だ。退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)