定刻7時55分グラナダ着。昨夜の列車は暑くもなく寒くもなくその点では良かったのだが、やはり座席を引き出して前とくっつけてもそこに二人が寝るのはきつく、ほとんど寝返りも打てない状態だったので、朝起きると体が痛んだ。駅で洗面後少し歩いて大通りに出、バスに乗り、降りてから又少し歩いてヌエバ広場を右折、アルハンブラ宮殿への登り坂の途中にあるオスタル・ランダスリに入る。空室はあるがまだ先客が出ないので待たされる。例によってあと20分、あと5分の繰り返し。その間、オスタルのレストランでコーヒーとパンの朝食。又ロビーで4~5才の娘と遊んだりして時間をつぶす。9時前に着いて、部屋に入ったのは10時半頃。すぐに着替えてアルハンブラへ。

2080-08-21 Granada アルハンブラ宮殿城壁上から11時頃には入場。日向は暑く、強烈な大陽。最初はアービングの「アルハンブラ物語」に出てくる三人の王女が閉じ込められたという塔。アルハンブラは赤い城という意味があるそうだが、確かに外壁のレンガは赤茶。王宮はやはりすばらしい。

2080-08-21 Granada アルハンブラ宮殿の美しい模様壁、天井、柱と一面にレリーフが施してあり、今でこそ茶色っぽくなっているが、おそらく昔は白で、所々に残っているので分かるのだが、青や緑の彩色もなされていたのだろう。

1980-08-17 Granada アルハンブラ宮殿内の上階を見上げるそれは確かに美しく、豪華である。しかし同じ豪華さでもマドリーの王宮や各地のキリスト教会に見られる豪華さとは明らかに異なる。あのキンキラキンの嫌味がないのだ。アラブ・イスラム文化の最高峰と言われるだけのことはある。しかも屋根のひさしの裏を見ると、そこは木造なのだ。

2080-08-21 Granada アルハンブラからカルロス5世宮を中にレコンキスタをやったキリスト教王カルロス五世が、回教王を追い出したあとに造った王宮があるのだが、その貧弱さ、みすぼらしさ。そこにはどう仕様もない文化の落差がまざまざと見て取られ、むしろカルロス五世があわれにさえ感じられてくるのだ。おそらくイスラム文化の最高度の発展の中にその爛熟と衰退の結晶として生まれたアルハンブラは、それ故に「野蛮」なキリスト教徒に敗北せざるを得なかったのだろう。それはあるいはローマ帝国がゲルマンに敗北して行くのと似ているのかも知れない。

1980-08-17 Granada ヘネラリフェの噴水ヘネラリーフェ離宮。小さな谷を一つ越えた丘の斜面にある。シエラ・ネバダから引いたという水。ここは水の宮殿。噴水の饗宴である。

1980-08-17 Granada ヘネラリフェ庭園からの眺め様々な噴水があり、糸杉の庭園があり、そして一番奥には丘の斜面を登る階段の両側、普通なら手摺りになるところを冷たい水が勢いよく流れ落ちて行く。ヘネラリーフェは町よりも、アルハンブラよりも涼しい。それは高いところにあることも、木影の多いこともあるだろうが、やはりこれらの「水」によるところが大であろう。これを造った人々がイスラムであり、砂漠にその根を持つことによってはじめて可能となったものであろう。

途中、昼食のために近くのホテルまで出た約1時間を除いて、今日は7時間もアルハンブラで過ごしたことになる。7時の閉門間際に出てオスタルに帰り、シャワーを浴びて日記を書いている。配偶者は洗濯。今夜は10時から宿の人の紹介でフラメンコ・ショー。宿の前までバスが来るそうで、言ってみればオプショナル・ツアー。今回の旅ではこうしたものは最初で最後になるだろうが、フラメンコだからまあこんなものでもよい。(20時50分グラナダの宿にて)

10時少し前にロビーに下りて行く。フラメンコ行のバスはまだ来ないのでロビーで待つようにとのことなので、ロビーでテレビを見ながら待つ。ここではテレビを見る時、部屋を暗くする。西部劇をやっているが、スペイン語への吹き替え版。10時少し過ぎに迎えの男が来る。ついて行くと途中のオスタルで四人を連れ出し、ヌエバ広場に待たせてあるバスに乗り込む。バスはあちらこちらに寄って客を集めて行くのだが、はじめは二人ずつ程しか乗り込んで来ないのでこんなに少ない客で大丈夫かと心配したが、後でどっと増え、最後には二台のバスで70~80人程にもなる。サクロモンテの丘を登り、上で降ろされる。そこから色々と裏道を歩いて行く。

1980-08-18 Granada 民家の壁を飾る花々途中、中世の城壁や壁に瀬戸物を飾りつけてある家々などを見せられ、聖ニコラス教会から遠くアルハンブラを見る。夜、照明に浮かび上がるアルハンブラを谷一つ隔てて見るのは、昼間見るのとは違ったすばらしさ。照明がいくらか弱いようにも思えるが、まさに「絵葉書的」美しさ。そこから丘を下り、ふもとのクエバス(洞窟住居)フラメンコ・ショー。何だかんだでここまでに1時間以上かかっている。

クエバスに入ってこれはもうガッカリ。とにかく多人数なので入りきれるかどうかこちらが心配していたが。こういうツアーだからあまり期待はしていなかったが、せめてテーブルを囲んで見られると思っていた。ところが中は、一番奥に狭い舞台があり、座席は小さな椅子が狭い通路を挟んで横に6~7つ。前後の間隔もなく並べられて、昔入ったアングラ映画館といった感じ。

1980-08-18 Granada 洞窟でのフラメンコはじまったフラメンコがまたひどい。ギター一人、踊り手の女性四人。四人の内一人は16~17才位。他はオバサンで太っていて、とてもフラメンコを踊るとは想像出来ない。はじまってみると踊りも下手。一人はまだいくらか見られるものを踊ったが、他は何とも…。16~17才の娘はヘソを出し、若さだけを売り物にしているのだろうが、踊りはなっておらず、しかも仕方なくやっているという気分が露骨に動作や表情に出ている。ギターも駄目で、一度は「禁じられた遊び」なんぞをやり、こちらを無限にシラケさせてくれる。この一団が終わって「ああ、これで帰れる」と思って待っていたら、もう一団やって来る。今度も同じ編成。四人の踊り子の内一人は又々12~13才位の娘。身体付も全くの子供。もう一人は30才前後だろうか、今までの内では一番スマート。しかしやはり踊りは駄目。娘も可愛いだけがとりえ。今度の娘はそれでも楽しそうにやっているのでまだ救われるが。しかしもうこちらは眠くてどうしようもなくなり、ウトウトしながら見ていた。最後に男の子(これも12~13才位か)が加わり、学芸会の雰囲気。それでも他の観客の多くは結構楽しんでいる模様。まあ、どうせ金を払って入ってしまったのだから楽しまなければ損なのかも知れないが。とにかく最悪であった。アルハンブラの夜景が見られたのが唯一の慰め。バスに乗ってヌエバ広場まで送られ、広場で一軒だけ開いている店でケーキを一切買って食べながら宿に戻る。部屋に入ってすぐ寝るが、午前2時を過ぎていた。

Andrésスペイン旅行定刻7時55分グラナダ着。昨夜の列車は暑くもなく寒くもなくその点では良かったのだが、やはり座席を引き出して前とくっつけてもそこに二人が寝るのはきつく、ほとんど寝返りも打てない状態だったので、朝起きると体が痛んだ。駅で洗面後少し歩いて大通りに出、バスに乗り、降りてから又少し歩いてヌエバ広場を右折、アルハンブラ宮殿への登り坂の途中にあるオスタル・ランダスリに入る。空室はあるがまだ先客が出ないので待たされる。例によってあと20分、あと5分の繰り返し。その間、オスタルのレストランでコーヒーとパンの朝食。又ロビーで4~5才の娘と遊んだりして時間をつぶす。9時前に着いて、部屋に入ったのは10時半頃。すぐに着替えてアルハンブラへ。 11時頃には入場。日向は暑く、強烈な大陽。最初はアービングの「アルハンブラ物語」に出てくる三人の王女が閉じ込められたという塔。アルハンブラは赤い城という意味があるそうだが、確かに外壁のレンガは赤茶。王宮はやはりすばらしい。 壁、天井、柱と一面にレリーフが施してあり、今でこそ茶色っぽくなっているが、おそらく昔は白で、所々に残っているので分かるのだが、青や緑の彩色もなされていたのだろう。 それは確かに美しく、豪華である。しかし同じ豪華さでもマドリーの王宮や各地のキリスト教会に見られる豪華さとは明らかに異なる。あのキンキラキンの嫌味がないのだ。アラブ・イスラム文化の最高峰と言われるだけのことはある。しかも屋根のひさしの裏を見ると、そこは木造なのだ。 中にレコンキスタをやったキリスト教王カルロス五世が、回教王を追い出したあとに造った王宮があるのだが、その貧弱さ、みすぼらしさ。そこにはどう仕様もない文化の落差がまざまざと見て取られ、むしろカルロス五世があわれにさえ感じられてくるのだ。おそらくイスラム文化の最高度の発展の中にその爛熟と衰退の結晶として生まれたアルハンブラは、それ故に「野蛮」なキリスト教徒に敗北せざるを得なかったのだろう。それはあるいはローマ帝国がゲルマンに敗北して行くのと似ているのかも知れない。 ヘネラリーフェ離宮。小さな谷を一つ越えた丘の斜面にある。シエラ・ネバダから引いたという水。ここは水の宮殿。噴水の饗宴である。 様々な噴水があり、糸杉の庭園があり、そして一番奥には丘の斜面を登る階段の両側、普通なら手摺りになるところを冷たい水が勢いよく流れ落ちて行く。ヘネラリーフェは町よりも、アルハンブラよりも涼しい。それは高いところにあることも、木影の多いこともあるだろうが、やはりこれらの「水」によるところが大であろう。これを造った人々がイスラムであり、砂漠にその根を持つことによってはじめて可能となったものであろう。 途中、昼食のために近くのホテルまで出た約1時間を除いて、今日は7時間もアルハンブラで過ごしたことになる。7時の閉門間際に出てオスタルに帰り、シャワーを浴びて日記を書いている。配偶者は洗濯。今夜は10時から宿の人の紹介でフラメンコ・ショー。宿の前までバスが来るそうで、言ってみればオプショナル・ツアー。今回の旅ではこうしたものは最初で最後になるだろうが、フラメンコだからまあこんなものでもよい。(20時50分グラナダの宿にて) 10時少し前にロビーに下りて行く。フラメンコ行のバスはまだ来ないのでロビーで待つようにとのことなので、ロビーでテレビを見ながら待つ。ここではテレビを見る時、部屋を暗くする。西部劇をやっているが、スペイン語への吹き替え版。10時少し過ぎに迎えの男が来る。ついて行くと途中のオスタルで四人を連れ出し、ヌエバ広場に待たせてあるバスに乗り込む。バスはあちらこちらに寄って客を集めて行くのだが、はじめは二人ずつ程しか乗り込んで来ないのでこんなに少ない客で大丈夫かと心配したが、後でどっと増え、最後には二台のバスで70~80人程にもなる。サクロモンテの丘を登り、上で降ろされる。そこから色々と裏道を歩いて行く。 途中、中世の城壁や壁に瀬戸物を飾りつけてある家々などを見せられ、聖ニコラス教会から遠くアルハンブラを見る。夜、照明に浮かび上がるアルハンブラを谷一つ隔てて見るのは、昼間見るのとは違ったすばらしさ。照明がいくらか弱いようにも思えるが、まさに「絵葉書的」美しさ。そこから丘を下り、ふもとのクエバス(洞窟住居)でフラメンコ・ショー。何だかんだでここまでに1時間以上かかっている。 クエバスに入ってこれはもうガッカリ。とにかく多人数なので入りきれるかどうかこちらが心配していたが。こういうツアーだからあまり期待はしていなかったが、せめてテーブルを囲んで見られると思っていた。ところが中は、一番奥に狭い舞台があり、座席は小さな椅子が狭い通路を挟んで横に6~7つ。前後の間隔もなく並べられて、昔入ったアングラ映画館といった感じ。 はじまったフラメンコがまたひどい。ギター一人、踊り手の女性四人。四人の内一人は16~17才位。他はオバサンで太っていて、とてもフラメンコを踊るとは想像出来ない。はじまってみると踊りも下手。一人はまだいくらか見られるものを踊ったが、他は何とも…。16~17才の娘はヘソを出し、若さだけを売り物にしているのだろうが、踊りはなっておらず、しかも仕方なくやっているという気分が露骨に動作や表情に出ている。ギターも駄目で、一度は「禁じられた遊び」なんぞをやり、こちらを無限にシラケさせてくれる。この一団が終わって「ああ、これで帰れる」と思って待っていたら、もう一団やって来る。今度も同じ編成。四人の踊り子の内一人は又々12~13才位の娘。身体付も全くの子供。もう一人は30才前後だろうか、今までの内では一番スマート。しかしやはり踊りは駄目。娘も可愛いだけがとりえ。今度の娘はそれでも楽しそうにやっているのでまだ救われるが。しかしもうこちらは眠くてどうしようもなくなり、ウトウトしながら見ていた。最後に男の子(これも12~13才位か)が加わり、学芸会の雰囲気。それでも他の観客の多くは結構楽しんでいる模様。まあ、どうせ金を払って入ってしまったのだから楽しまなければ損なのかも知れないが。とにかく最悪であった。アルハンブラの夜景が見られたのが唯一の慰め。バスに乗ってヌエバ広場まで送られ、広場で一軒だけ開いている店でケーキを一切買って食べながら宿に戻る。部屋に入ってすぐ寝るが、午前2時を過ぎていた。退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)