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大会組織委員会会長を巡る混乱の中で、あらためてIOC,JOC、大会組織委員会、東京都、マスメディアのオリンピックに対する姿勢が露呈している。

森前会長の女性蔑視発言に端を発した今回の混乱。その中で盛んに言われたことはオリンピック精神に反する、ということだった。あらためてオリンピック精神なるものを見直してみると、「オリンピック憲章」の冒頭に掲げられたオリンピズムの根本原則には次のようにある。


3.オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの価値に鼓舞された個人と団体による、協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進めるのは最高機関の IOCである。活動は5大陸にまたがり、偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会に世界中の選手を集めるとき、頂点に達する。そのシンボルは5つの結び合う輪である。

4.スポーツをすることは人権の 1 つである。すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。オリンピック精神においては友情、 連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる。

5.オリンピック・ムーブメントにおけるスポーツ団体は、スポーツが社会の枠組みの中で営まれることを理解し、政治的に中立でなければならない。スポーツ団体は自律の権利と義務を持つ。自律には競技規則を自由に定め管理すること、自身の組織の構成とガバナンスについて決定すること、外部からのいかなる影響も受けずに選挙を実施する権利、および良好なガバナンスの原則を確実に適用する責任が含まれる。

6.このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。


「政治的中立」というありもしないものを掲げている点で、全面的に賛同できると言うものではないが、大多数にとってなかなか説得的な内容だ。問題はこれを現実のどの程度実現できているかと問うのは酷にしても、どの程度実現しようとしているかだろう。

森前会長が女性蔑視の発言をしたことを問題にする人は多く、その声に圧されて辞任に至ったわけだが、森氏の人権感覚がどんなものであったかは彼の会長就任のはるか以前から知られていたことだ。だから最も深刻な問題は森氏にあるのではなく、当初からオリンピック憲章に反するような人物を会長に据え、支持してきたオリンピック村(IOC,JOC,東京都、大会組織委員会、オリンピックを後援しているマスメディアや企業などを総称して)の姿勢だ。つまりオリンピック村の人々や組織にとっては、オリンピック憲章は建て前、お飾りでしかなく、本気で実現しようなどとは考えていないということが明らかになったのだ。

コロナ禍の継続の中で、今夏のオリンピック開催についての議論が出始めているが、ここでもオリンピック村がオリンピック憲章など考えの片隅にも置いていない姿勢が見て取れる。東京でも感染者数が減ってきた、欧米ではワクチン接種が進みつつある、観客を減らせば団丈夫ではないか、無観客なら行けそうだ・・・。ここに透けて見えるのは、都民が、あるいは日本人の安全がある程度担保されるなら開催しようという姿勢だ。彼らの視界には日本と欧米しかないのだ。

オリンピック憲章を本気で掲げようというのであれば、オリンピック村を解体するのが第一歩だろう。オリンピックにはカネがかかる、オリンピックで集めたカネでマイナーなスポーツや途上国の競技団体を支援しているのだから、資金集めのためにテレビ放映権を高く売り、スポンサーを集めるのは当然。そういったしたり顔が並んで見える。しかし少しばかり古い言い方だが、「目的は手段を正当化する」のではなく、「目的は手段によって規定される」のだし、現在のオリンピック村は手段に過ぎなかったはずのものを最大の目的にしてしまっている。

何よりも、「国旗」を掲げ、「国歌」を奏で、「国」ごとに選手団を組み、「国」ごとにオリンピック委員会を組織しているという時点で、オリンピック村オリンピック憲章の対極にあることは確かなのだが。

Andrés政治・経済・国際日記・コラム・つぶやき大会組織委員会会長を巡る混乱の中で、あらためてIOC,JOC、大会組織委員会、東京都、マスメディアのオリンピックに対する姿勢が露呈している。 森前会長の女性蔑視発言に端を発した今回の混乱。その中で盛んに言われたことはオリンピック精神に反する、ということだった。あらためてオリンピック精神なるものを見直してみると、「オリンピック憲章」の冒頭に掲げられたオリンピズムの根本原則には次のようにある。 3.オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの価値に鼓舞された個人と団体による、協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進めるのは最高機関の IOCである。活動は5大陸にまたがり、偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会に世界中の選手を集めるとき、頂点に達する。そのシンボルは5つの結び合う輪である。 4.スポーツをすることは人権の 1 つである。すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。オリンピック精神においては友情、 連帯、フェアプレーの精神とともに相互理解が求められる。 5.オリンピック・ムーブメントにおけるスポーツ団体は、スポーツが社会の枠組みの中で営まれることを理解し、政治的に中立でなければならない。スポーツ団体は自律の権利と義務を持つ。自律には競技規則を自由に定め管理すること、自身の組織の構成とガバナンスについて決定すること、外部からのいかなる影響も受けずに選挙を実施する権利、および良好なガバナンスの原則を確実に適用する責任が含まれる。 6.このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。 「政治的中立」というありもしないものを掲げている点で、全面的に賛同できると言うものではないが、大多数にとってなかなか説得的な内容だ。問題はこれを現実のどの程度実現できているかと問うのは酷にしても、どの程度実現しようとしているかだろう。 森前会長が女性蔑視の発言をしたことを問題にする人は多く、その声に圧されて辞任に至ったわけだが、森氏の人権感覚がどんなものであったかは彼の会長就任のはるか以前から知られていたことだ。だから最も深刻な問題は森氏にあるのではなく、当初からオリンピック憲章に反するような人物を会長に据え、支持してきたオリンピック村(IOC,JOC,東京都、大会組織委員会、オリンピックを後援しているマスメディアや企業などを総称して)の姿勢だ。つまりオリンピック村の人々や組織にとっては、オリンピック憲章は建て前、お飾りでしかなく、本気で実現しようなどとは考えていないということが明らかになったのだ。 コロナ禍の継続の中で、今夏のオリンピック開催についての議論が出始めているが、ここでもオリンピック村がオリンピック憲章など考えの片隅にも置いていない姿勢が見て取れる。東京でも感染者数が減ってきた、欧米ではワクチン接種が進みつつある、観客を減らせば団丈夫ではないか、無観客なら行けそうだ・・・。ここに透けて見えるのは、都民が、あるいは日本人の安全がある程度担保されるなら開催しようという姿勢だ。彼らの視界には日本と欧米しかないのだ。 オリンピック憲章を本気で掲げようというのであれば、オリンピック村を解体するのが第一歩だろう。オリンピックにはカネがかかる、オリンピックで集めたカネでマイナーなスポーツや途上国の競技団体を支援しているのだから、資金集めのためにテレビ放映権を高く売り、スポンサーを集めるのは当然。そういったしたり顔が並んで見える。しかし少しばかり古い言い方だが、「目的は手段を正当化する」のではなく、「目的は手段によって規定される」のだし、現在のオリンピック村は手段に過ぎなかったはずのものを最大の目的にしてしまっている。 何よりも、「国旗」を掲げ、「国歌」を奏で、「国」ごとに選手団を組み、「国」ごとにオリンピック委員会を組織しているという時点で、オリンピック村がオリンピック憲章の対極にあることは確かなのだが。退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)