なぜCamino de la Plata (Via de la Plata) か。

何よりも、なぜ6度目のCaminoなのか。

最初にサンチアゴ巡礼路 Camino を歩いた時、Camino Francésの途中で夕食に入ったレストランの壁に何枚ものCredencialが貼ってあるのを見かけた。レストランの主人に訊ねると、兄のものだけどあいつは気狂いだからと、冗談とも本気ともつかない口調で答えた。その時は私も「気狂い」という言葉に納得できるような気がした。まだ道程の半分にも達していない段階だったが、歩き続けることの厳しさを感じている頃だったので。

それが今では私自身が、あの気狂いと言われた「兄」と同じようなことをしてしまっている。そこに大した意味や意図がある訳ではない。初めてのCaminoでは気負いもあった。何としてでも歩き通そうと。しかし2度目3度目と進むに従って気負いはなくなり、むしろ頭の中は限りなく空っぽになって、ひたすら疲れた、お腹が空いた、宿まで残り何キロということだけが浮かんでは消える状態で、ある意味で限りない単調さが心地良くなっていたと思う。

そんなCaminoに再び立つのだが、これまでと少々違うことがある。

初回でこそCaminoは一度だけと当然のことのように思っていたが、二度目からは次もまたあるだろうと、これもまた自然に考えていた。しかし今回は、これが最後かもしれないという思いが強い。最後にしたいわけではない。ただいつかは最後にならざるを得ないし、それが今回になる可能性はもう低くはないのだと思う。

芭蕉の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が思い起こされる。旅の途上で倒れるのは避けたいが、一方ではそれも旅の終え方として悪くないとも思う。傍迷惑なことであろうが。

Caminoにはまだまだ多くの道がある。全てを踏破することは最早限りなく不可能に近い。しかしそれはまた、まだ歩く道が残されているということでもある。

 

Andrés銀の道 Camino de la PlataCamino,サンティアゴ,巡礼,銀の道なぜCamino de la Plata (Via de la Plata) か。 何よりも、なぜ6度目のCaminoなのか。 最初にサンチアゴ巡礼路 Camino を歩いた時、Camino Francésの途中で夕食に入ったレストランの壁に何枚ものCredencialが貼ってあるのを見かけた。レストランの主人に訊ねると、兄のものだけどあいつは気狂いだからと、冗談とも本気ともつかない口調で答えた。その時は私も「気狂い」という言葉に納得できるような気がした。まだ道程の半分にも達していない段階だったが、歩き続けることの厳しさを感じている頃だったので。 それが今では私自身が、あの気狂いと言われた「兄」と同じようなことをしてしまっている。そこに大した意味や意図がある訳ではない。初めてのCaminoでは気負いもあった。何としてでも歩き通そうと。しかし2度目3度目と進むに従って気負いはなくなり、むしろ頭の中は限りなく空っぽになって、ひたすら疲れた、お腹が空いた、宿まで残り何キロということだけが浮かんでは消える状態で、ある意味で限りない単調さが心地良くなっていたと思う。 そんなCaminoに再び立つのだが、これまでと少々違うことがある。 初回でこそCaminoは一度だけと当然のことのように思っていたが、二度目からは次もまたあるだろうと、これもまた自然に考えていた。しかし今回は、これが最後かもしれないという思いが強い。最後にしたいわけではない。ただいつかは最後にならざるを得ないし、それが今回になる可能性はもう低くはないのだと思う。 芭蕉の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が思い起こされる。旅の途上で倒れるのは避けたいが、一方ではそれも旅の終え方として悪くないとも思う。傍迷惑なことであろうが。 Caminoにはまだまだ多くの道がある。全てを踏破することは最早限りなく不可能に近い。しかしそれはまた、まだ歩く道が残されているということでもある。  退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)