全1,094ぺ-ジという大冊。読み終えるのに数ヶ月かかったのは、大冊だったからだけではない。

著者は日本全国で数千人のキリスト者に会い、インタビューを繰り返した上で、最終的には135人の証言で本書を構成した。そこにはさまざまな人生と、その中での信仰、そして時には不信が語られていて、底には「なぜ、神を信じるのか」という問いが流れている。

「なぜ、神を信じるのか」という問いは、著者が出会ったキリスト者たちに投げかけたものである以上に、キリスト者が著者との対話の中で、あるいは自らの信仰の中で常に自身に投げかけ続けていた問いでもある。

キリスト教徒の家庭に生まれて幼児洗礼を受け、そのままキリスト教を信じることとなった人。

友人知人、周囲の人の誘いで教会に通うようになった人。

どこかに救いを求めざるを得なくなって、信仰の道に入った人。

さまざまな事情で教会や信仰から離れてしまった人。

信仰から離れた後に再び戻った人。

神父、牧師、修道者から平信徒。カトリック、正教会、プロテスタント。青少年から老人まで。北海道から沖縄まで。さまざまな階層、経歴の人たち。

日本のキリスト者特有の用語や語り口に終始する人もいれば、そうでない人もいる。

 

最も印象に残っているのは、日本基督教団の玉井真理子さん。非常に独特な「信仰」の形で、彼女の語っていることは不信の方が大きいように思える。ダウン症の子を37年間育て、その死後は躁鬱病での入退院を繰り返しながら研究者として大学で働き、教会には途切れ途切れに通っている。

玉井さんが息子の死の一ヶ月後に著者に送ったメールには、次のように記されている。

 

息子がいなくなって一か月以上たちますが、落ち着くとか、気持ちの整理がつくとか、そんなこととは程遠い感じです。

クリスチャンとしては、神の元に召されただけかもしれませんが、私にとっては、焼かれて骨になって灰になって、私の前から消えてしまっただけのこと。

納骨する気にもなれず、私とふたり、自宅にいます。

天国で楽しく暮らしているとか、空の上からみんなを見てくれているとか、絵空事にしか聞こえません。

人はよくもそんな嘘っぱちを何千年も信じてきたものだとさえ思ってしまいます。通夜告別式一切やりませんでした。障害のある子が親より先に死ぬのは、ある意味親孝行なんだそうです。そんなささやき声が、通夜や告別式の時に聞こえてきたら、耐えられないと思ったからです。

息子もクリスチャンなので、亡くなったあとで、一応教会には連れていきました。牧師が聖書を読んでくれましたが、頭には入らず、心にも響きませんでした。

正直にそのことを牧師にいったら、牧師は、怒りをぶつけられるのも、牧師の役割だといってくれました。・・・・・・・・・

 

さらにこんな短歌も詠んでいる。

 

命より

大切なもの

あるなんて

わたしの前で言ってみろ

イエス

 

このイエスは「救世主イエス」なのか、2000年前に生きた一人の男イエスなのか。

信仰と不信の間を繰り返し揺れる中で、玉井さんの信仰は深まったのか、玉井さんは救われつつあるのか、私には分からないし玉井さん自身にも分からないのかもしれない。それでも玉井さんが生き続けられているのが信仰の価値なのだろう。

 

神学や宗教学、宣教のための書、社会学的や心理学的なアプローチなどと異なり、人々の生の声を忠実に集めて示してくれたこの作品は、信仰のさまざまな姿に触れて宗教とは何か神とは何かを考える上で貴重なものだ。

 

/images/2025/10/image-1-700x1030.webp/images/2025/10/image-1-150x150.webpAndrés書籍・雑誌日本のキリスト者,最相葉月,玉井真理子,証し全1,094ぺ-ジという大冊。読み終えるのに数ヶ月かかったのは、大冊だったからだけではない。 著者は日本全国で数千人のキリスト者に会い、インタビューを繰り返した上で、最終的には135人の証言で本書を構成した。そこにはさまざまな人生と、その中での信仰、そして時には不信が語られていて、底には「なぜ、神を信じるのか」という問いが流れている。 「なぜ、神を信じるのか」という問いは、著者が出会ったキリスト者たちに投げかけたものである以上に、キリスト者が著者との対話の中で、あるいは自らの信仰の中で常に自身に投げかけ続けていた問いでもある。 キリスト教徒の家庭に生まれて幼児洗礼を受け、そのままキリスト教を信じることとなった人。 友人知人、周囲の人の誘いで教会に通うようになった人。 どこかに救いを求めざるを得なくなって、信仰の道に入った人。 さまざまな事情で教会や信仰から離れてしまった人。 信仰から離れた後に再び戻った人。 神父、牧師、修道者から平信徒。カトリック、正教会、プロテスタント。青少年から老人まで。北海道から沖縄まで。さまざまな階層、経歴の人たち。 日本のキリスト者特有の用語や語り口に終始する人もいれば、そうでない人もいる。   最も印象に残っているのは、日本基督教団の玉井真理子さん。非常に独特な「信仰」の形で、彼女の語っていることは不信の方が大きいように思える。ダウン症の子を37年間育て、その死後は躁鬱病での入退院を繰り返しながら研究者として大学で働き、教会には途切れ途切れに通っている。 玉井さんが息子の死の一ヶ月後に著者に送ったメールには、次のように記されている。   息子がいなくなって一か月以上たちますが、落ち着くとか、気持ちの整理がつくとか、そんなこととは程遠い感じです。 クリスチャンとしては、神の元に召されただけかもしれませんが、私にとっては、焼かれて骨になって灰になって、私の前から消えてしまっただけのこと。 納骨する気にもなれず、私とふたり、自宅にいます。 天国で楽しく暮らしているとか、空の上からみんなを見てくれているとか、絵空事にしか聞こえません。 人はよくもそんな嘘っぱちを何千年も信じてきたものだとさえ思ってしまいます。通夜告別式一切やりませんでした。障害のある子が親より先に死ぬのは、ある意味親孝行なんだそうです。そんなささやき声が、通夜や告別式の時に聞こえてきたら、耐えられないと思ったからです。 息子もクリスチャンなので、亡くなったあとで、一応教会には連れていきました。牧師が聖書を読んでくれましたが、頭には入らず、心にも響きませんでした。 正直にそのことを牧師にいったら、牧師は、怒りをぶつけられるのも、牧師の役割だといってくれました。・・・・・・・・・   さらにこんな短歌も詠んでいる。   命より 大切なもの あるなんて わたしの前で言ってみろ イエス   このイエスは「救世主イエス」なのか、2000年前に生きた一人の男イエスなのか。 信仰と不信の間を繰り返し揺れる中で、玉井さんの信仰は深まったのか、玉井さんは救われつつあるのか、私には分からないし玉井さん自身にも分からないのかもしれない。それでも玉井さんが生き続けられているのが信仰の価値なのだろう。   神学や宗教学、宣教のための書、社会学的や心理学的なアプローチなどと異なり、人々の生の声を忠実に集めて示してくれたこの作品は、信仰のさまざまな姿に触れて宗教とは何か神とは何かを考える上で貴重なものだ。  退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)