「日本二十六聖人 長崎への道」(日本カトリック中央協議会)を参考にしながら歩くことにした。

1597年2月5日、外国人宣教師6名と日本人キリシタン20名が長崎で処刑された。

同年1月3日に京都で耳を削がれた後、市中を引きまわされ、翌4日から処刑地の長崎に向かってほとんどを陸路で歩くことになった。その行程は正確には分かっておらず、上書でもそう断られている。

私たちも、上書を参考にしながら、おそらく通ったであろう西国街道(山陽道)から長崎街道を歩いて行こうと思う。

これまで歩いた五街道も、江戸時代の道筋は消えて、それに近い道や現在の国道を進むことが多かった。今回も同じような歩みになるだろう。

二十六聖人を長い距離歩かせたのは見せしめのためだったのだろうが、彼らは通り過ぎる街や村で祈り、説教し、宣教をさえしていたようだ。結局のところ秀吉から江戸時代とキリシタンは弾圧され、日本でキリスト教が大きく広まることはなかった。その点からすると秀吉の意図は達成された。しかし私が興味を抱くのは、なぜ彼らは死に向かって歩いたのか、さらには自ら進んで処刑者に加えてくれるように願い出たものもいたのはなぜなのかということだ。

彼らは処刑されることでキリストに限りなく近づくことができると考え、長崎の刑場である西坂への道の先に天国を見て歩いたのだろうか。

 

/images/2025/11/IMG_2378-700x981.webp/images/2025/11/IMG_2378-150x150.webpAndrés長崎への道二十六聖人,京都,長崎への道「日本二十六聖人 長崎への道」(日本カトリック中央協議会)を参考にしながら歩くことにした。 1597年2月5日、外国人宣教師6名と日本人キリシタン20名が長崎で処刑された。 同年1月3日に京都で耳を削がれた後、市中を引きまわされ、翌4日から処刑地の長崎に向かってほとんどを陸路で歩くことになった。その行程は正確には分かっておらず、上書でもそう断られている。 私たちも、上書を参考にしながら、おそらく通ったであろう西国街道(山陽道)から長崎街道を歩いて行こうと思う。 これまで歩いた五街道も、江戸時代の道筋は消えて、それに近い道や現在の国道を進むことが多かった。今回も同じような歩みになるだろう。 二十六聖人を長い距離歩かせたのは見せしめのためだったのだろうが、彼らは通り過ぎる街や村で祈り、説教し、宣教をさえしていたようだ。結局のところ秀吉から江戸時代とキリシタンは弾圧され、日本でキリスト教が大きく広まることはなかった。その点からすると秀吉の意図は達成された。しかし私が興味を抱くのは、なぜ彼らは死に向かって歩いたのか、さらには自ら進んで処刑者に加えてくれるように願い出たものもいたのはなぜなのかということだ。 彼らは処刑されることでキリストに限りなく近づくことができると考え、長崎の刑場である西坂への道の先に天国を見て歩いたのだろうか。  退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)