IMGP1797花巻の郊外に高村光太郎の山荘がある。山荘といっても山の中にある別荘ではない。農地のはずれ、小高い山の麓にあるあばら家だ。ここで光太郎は1945年からの7年間、戦中戦後、彼の晩年を過ごした。

私にとって光太郎は、吉本隆明の「高村光太郎」の範囲内でしかなかった。「千恵子抄」や「道程」、そして十和田湖畔の「乙女の像」などのいくつかの彫像に触れたことはあったものの、それらは中学・高校時代の国語や美術の授業で勉強したことがあるというレベルから大きく離れるものではなかった。

吉本は「高村光太郎」の中で、「元来、生粋の都会人である高村が、岩手県花巻市の郊外の山小屋に入って、農産物の自給自足をやって、人里はなれた孤絶生活をおくるというのは、不可解なことだが」と述べている。

高村光太郎は「我が詩をよみて人死に就けり」に、「死の恐怖から私自身を救ふために/「必死の時」を必死になって私は書いた。/その詩を戦地の同胞がよんだ。/人はそれをよんで死に立ち向かった。/その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送った/潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。」と記している。

こうしたことから私は、光太郎の山荘生活は戦争責任を自省するための隠棲、と思っていた。山荘は鉱夫小屋を移築した25平方メートルほどの粗末なもので、梅雨明け間近だったせいもあるのだろうが周囲は湿地。ここでの「孤絶生活」は確かに自己の戦争責任を問い詰めるのにふさわしい。

IMGP1796しかし山荘は現在、二重に覆い屋で保護されている。外側は1977年につくられたもの。

 

 

 

 

DVC00038 その中に1957年、村人たちが材木を持ち寄ってつくった套屋がある。光太郎がいなくなって痛みが激しくなったのを見かねた村人たちが建てたものだそうだ。

 

近くの高村記念館に展示されているものや館員の方の話では、光太郎は盛んに村人たちと交流し、小学校の学芸会に参加し、小学校や中学校に校訓となるような書を寄贈したりして、人々の敬愛を受けていたようだ。

ここには吉本の言う「人里はなれた孤絶生活」とは全く異なる高村光太郎の姿があった。

por Andres

Andres y Amelia国内旅行花巻の郊外に高村光太郎の山荘がある。山荘といっても山の中にある別荘ではない。農地のはずれ、小高い山の麓にあるあばら家だ。ここで光太郎は1945年からの7年間、戦中戦後、彼の晩年を過ごした。 私にとって光太郎は、吉本隆明の「高村光太郎」の範囲内でしかなかった。「千恵子抄」や「道程」、そして十和田湖畔の「乙女の像」などのいくつかの彫像に触れたことはあったものの、それらは中学・高校時代の国語や美術の授業で勉強したことがあるというレベルから大きく離れるものではなかった。 吉本は「高村光太郎」の中で、「元来、生粋の都会人である高村が、岩手県花巻市の郊外の山小屋に入って、農産物の自給自足をやって、人里はなれた孤絶生活をおくるというのは、不可解なことだが」と述べている。 高村光太郎は「我が詩をよみて人死に就けり」に、「死の恐怖から私自身を救ふために/「必死の時」を必死になって私は書いた。/その詩を戦地の同胞がよんだ。/人はそれをよんで死に立ち向かった。/その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送った/潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。」と記している。 こうしたことから私は、光太郎の山荘生活は戦争責任を自省するための隠棲、と思っていた。山荘は鉱夫小屋を移築した25平方メートルほどの粗末なもので、梅雨明け間近だったせいもあるのだろうが周囲は湿地。ここでの「孤絶生活」は確かに自己の戦争責任を問い詰めるのにふさわしい。 しかし山荘は現在、二重に覆い屋で保護されている。外側は1977年につくられたもの。         その中に1957年、村人たちが材木を持ち寄ってつくった套屋がある。光太郎がいなくなって痛みが激しくなったのを見かねた村人たちが建てたものだそうだ。   近くの高村記念館に展示されているものや館員の方の話では、光太郎は盛んに村人たちと交流し、小学校の学芸会に参加し、小学校や中学校に校訓となるような書を寄贈したりして、人々の敬愛を受けていたようだ。 ここには吉本の言う「人里はなれた孤絶生活」とは全く異なる高村光太郎の姿があった。 por Andres退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)