Piscolabisもこれで終わらなければならなくなり、少し暗い別れになってしまったのだった。 por Andres
https://dosperegrinos.net/2008/07/21/%e3%83%98%e3%83%9e%e5%85%88%e7%94%9f%e3%81%ae%e3%81%93%e3%81%a8%ef%bc%88%e6%9c%80%e5%be%8c%e3%81%aepiscolabis%e3%81%a7%ef%bc%89/Andres y Ameliaスペイン留学生活語学学校最終日、放課後のPiscolabis(茶話会)には3人の先生が来てくれた。ソニア、ベアトリス、ヘマ。ソニアは最初に会話を受け持ってくれた先生で、授業では1週間しかお世話にならなかったが、休み時間にロビーで会うと必ず声をかけてくれた。ベアトリスは最初の1週間は文法を、先週は会話を担当してくれた。ヘマは2週目に文法を、3週目から6週目まで会話を担当してくれた。この他にPiscolabisには来なかったが、カルメン先生が2週目に会話を、3週目から6週目までは文法を担当してくれた。ヘマ先生とは、授業で接する時間が多かったこともあるが、Piscolabisをはじめ話す機会も多かった。その上この最後のPiscolabisでは、いつもと違ってヘマ先生に午後の授業がなかったこともあって、さらにいろいろと話すことができた。ヘマはバルセロナの出身で、私がバルセロナの街が好きでこれまでに何度か訪れたことがあり、スペイン戦争に興味があると話したことが、親しく話すきっかけになった。ヘマの母方の祖父はフランコ側で、父方の祖父は共和派だったこと。伯父も共和派で、戦後(スペイン戦争の)フランスに逃げ、そこで今度はドイツ軍と戦い、つかまってアウシュビッツに送られたが何とか生き延びることができ、ヘマが小さい頃に何度も腕に押された収容所での焼印の数字を見せながらそうしたことを話してくれたこと。父は若い頃にフランスに出稼ぎに行き、工事現場で働いたが、イタリア人の出稼ぎの多い現場ではイタリア語を覚え、アルジェリア人の集まった現場ではアラビア語を覚えたので、今でもフランス語、カスティジャーノ(スペイン語)、カタラン(カタルーニャ語)と合わせて5つの言語が理解できるということ。そしてこの父が本好きで、特に歴史に興味があるので家にスペイン戦争の本がたくさんあり、ヘマも何冊か読んだこと。こんなことを話してくれ、スペイン戦争を扱ったいくつかの映画を紹介を紹介してくれた。このPiscolabisの最中にヘマの携帯に電話が入った。バルセロナに住むお母さんからで、ヘマの義理の叔父さん(叔母さんの夫)が急死したとのこと。前夜ベッドに入った時までは何の変調もなかったのに、翌朝には亡くなっていたそうだ。ヘマは、先週末にバルセロナで叔母さん夫婦と過ごしたばかりだったし、まだ36~37歳と若かったせいもあって、大変ショックを受けていた。このような場合にかけるべき言葉を知らないので、ただ"¡Qué pena!"と言うことしかできなかった。Piscolabisもこれで終わらなければならなくなり、少し暗い別れになってしまったのだった。por AndresAndres y AmeliaSubscriberDos Peregrinos
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