沖縄県知事選挙を間近に控えて、沖縄に来ている。宣伝カーが遠くを時折通り、支持を訴える声が小さく聞こえてくる。今日はたまたま沖縄市の胡屋十字路で下地候補の街頭演説に出くわした。午前11時という時刻のせいだけでなく、そもそも人通りのなくなってしまったこの交差点では、候補者本人が車の屋根に上って演説した10分ほどの間に通りかかったのは十数人で立ち止まって耳を傾ける者は皆無。これは下地氏への支持の少なさや知事選挙への関心の低さを意味するものではない。

ここは沖縄市の中心。過疎地というわけではないが中心市街地の空洞化の典型と言っていいような場所で、すぐ近くの商店街はまさにシャッター街そのもの。開いている店がぽつりぽつりとあるとは言っても、大部分を占める閉じられたシャッターには最早「貸店舗」の張り紙さえなく、見回してみても買い物客の姿はない。こんな街にしてしまったのは、「効率」のために一極集中を進め、大規模小売店舗法改定などでスーパーやショッピングセンターの進出を促進して個人商店を排除してきた政治であり、それを「便利」だとか「生活の向上」だと勘違いしてきた私たちだ。

こんな光景は日本中にあふれている。大都市を除けば、県庁所在地でさえも免れない状態だ。ここから抜け出そうとするなら、何ができるか。多くの個人、企業、自治体がさまざまな試みを繰り返してきた。中には成功したものもあるが、大部分は失敗を繰り返している。

沖縄市は失敗の典型かもしれない。市街地活性化のために建設された「コリンザ」。文化センターとショッピングセンターを融合させた施設。今はホールが郷土芸能などを上演する劇場として使われているが、あとはハローワークなど公的施設がいくつかあるだけで、商業施設は姿を消してしまい、3階ある中で1・2階は体育館のように何もないフロアの中心でエスカレーターだけが動いている。

「コリンザ」につづく「パークアヴェニュー」。蛇行する一方通行の車道を挟んで白いアーケードが続き、洒落た店舗が並んでいた1kmほどのプロムナード。ここも今ではシャッターが目立ち、あてにしていた観光客の姿を見かけることは少ない。

そして胡屋十字路に面した「ミュージックタウン」。基地を背景に独自の発展を見せた「オキナワン・ロック」。そして琉球民謡。音楽に賭けて起死回生をはかった施設。ロックに魅かれて若者や本土からの観光客が集うはずだったが、現実は近辺のお年寄りが三々五々寄り合ってはおしゃべりを楽しむ場所になっている。

何がこうした失敗を繰り返させているのか。甘い見通し、中途半端な企画、使途の限られた補助金。しかし何よりも大きなのは、「効率」とそのための「集中」ではないか。これを前にしては中小の自治体は無力に等しい。

それでも存続し、住民の生活を向上させようとした時、何ができるか。原発や基地がまさに「救世主」のごとく差し出される。だから政府は、過疎地に原発をつくり、沖縄に基地を押し付け続けることができた。そして大都市の住民や企業は、危険を負担することなく原発の恩恵だけを受け、本土の日本人は危険を被ることなく米軍に「守られている」という安心を手に入れてきた。

彼らも多額の補助金や交付金を受けて利益を享受してきたではないか。露骨に口にする人は少ないが、政治家や官僚から一般市民に至るまで、そう考えている人は多いだろう。だがこれは根本的に間違っている。過疎地対策、地方の生活の向上は、原発や基地とは関係なく、政府が実施すべき政策なのだ。迷惑施設と引き換えに恩恵として与えるようなものではない。

原発が安全なら、東京湾岸に原発を並べ、そこにある火力発電所を補助金付きで地方に分散すればよい。「安心」がほしいなら、都会の人々の健康のために地方の自然環境の開発を交付金付きで徹底的に規制して自然公園を整備すればよい。日比谷公園をヘリパッドにし、新宿御苑や代々木公園に兵舎を配置し、東京湾を埋め立てて空軍基地にして。

沖縄県知事選挙。普天間基地の辺野古移設(=新基地建設)への賛否が最大の争点となっている。それゆえこの選挙は単に一自治体の首長選挙という性格を超え、日本全体の政策を左右するはずのものだ。自民党政権は、「辺野古の問題はもう終わった」と沖縄の人々の意思を徹底的に無視しようとしている。前回知事選で仲井真現知事は自民党の推薦を受けつつ辺野古移設反対を公約に掲げて当選したが、移設容認に転じた。前回総選挙で自民党公認の4候補も、辺野古移設反対を掲げて当選し、容認に転じさせられた。だから今回の知事選挙は、基地問題とともに民主主義そのものが問われているのだ。

しかし本土では衆議院の解散風にメディアも人々も見事に乗せられ(あるいは自ら乗っかり)、沖縄県知事選挙はほとんどニュースになっていない。相変わらず、いつまで経っても、フクシマを経験しても、遠い所の問題はあくまで遠く、他人事はどうあっても自分のことにはならない。

por Andrés

Andres y Amelia政治・経済・国際沖縄県知事選挙を間近に控えて、沖縄に来ている。宣伝カーが遠くを時折通り、支持を訴える声が小さく聞こえてくる。今日はたまたま沖縄市の胡屋十字路で下地候補の街頭演説に出くわした。午前11時という時刻のせいだけでなく、そもそも人通りのなくなってしまったこの交差点では、候補者本人が車の屋根に上って演説した10分ほどの間に通りかかったのは十数人で立ち止まって耳を傾ける者は皆無。これは下地氏への支持の少なさや知事選挙への関心の低さを意味するものではない。 ここは沖縄市の中心。過疎地というわけではないが中心市街地の空洞化の典型と言っていいような場所で、すぐ近くの商店街はまさにシャッター街そのもの。開いている店がぽつりぽつりとあるとは言っても、大部分を占める閉じられたシャッターには最早「貸店舗」の張り紙さえなく、見回してみても買い物客の姿はない。こんな街にしてしまったのは、「効率」のために一極集中を進め、大規模小売店舗法改定などでスーパーやショッピングセンターの進出を促進して個人商店を排除してきた政治であり、それを「便利」だとか「生活の向上」だと勘違いしてきた私たちだ。 こんな光景は日本中にあふれている。大都市を除けば、県庁所在地でさえも免れない状態だ。ここから抜け出そうとするなら、何ができるか。多くの個人、企業、自治体がさまざまな試みを繰り返してきた。中には成功したものもあるが、大部分は失敗を繰り返している。 沖縄市は失敗の典型かもしれない。市街地活性化のために建設された「コリンザ」。文化センターとショッピングセンターを融合させた施設。今はホールが郷土芸能などを上演する劇場として使われているが、あとはハローワークなど公的施設がいくつかあるだけで、商業施設は姿を消してしまい、3階ある中で1・2階は体育館のように何もないフロアの中心でエスカレーターだけが動いている。 「コリンザ」につづく「パークアヴェニュー」。蛇行する一方通行の車道を挟んで白いアーケードが続き、洒落た店舗が並んでいた1kmほどのプロムナード。ここも今ではシャッターが目立ち、あてにしていた観光客の姿を見かけることは少ない。 そして胡屋十字路に面した「ミュージックタウン」。基地を背景に独自の発展を見せた「オキナワン・ロック」。そして琉球民謡。音楽に賭けて起死回生をはかった施設。ロックに魅かれて若者や本土からの観光客が集うはずだったが、現実は近辺のお年寄りが三々五々寄り合ってはおしゃべりを楽しむ場所になっている。 何がこうした失敗を繰り返させているのか。甘い見通し、中途半端な企画、使途の限られた補助金。しかし何よりも大きなのは、「効率」とそのための「集中」ではないか。これを前にしては中小の自治体は無力に等しい。 それでも存続し、住民の生活を向上させようとした時、何ができるか。原発や基地がまさに「救世主」のごとく差し出される。だから政府は、過疎地に原発をつくり、沖縄に基地を押し付け続けることができた。そして大都市の住民や企業は、危険を負担することなく原発の恩恵だけを受け、本土の日本人は危険を被ることなく米軍に「守られている」という安心を手に入れてきた。 彼らも多額の補助金や交付金を受けて利益を享受してきたではないか。露骨に口にする人は少ないが、政治家や官僚から一般市民に至るまで、そう考えている人は多いだろう。だがこれは根本的に間違っている。過疎地対策、地方の生活の向上は、原発や基地とは関係なく、政府が実施すべき政策なのだ。迷惑施設と引き換えに恩恵として与えるようなものではない。 原発が安全なら、東京湾岸に原発を並べ、そこにある火力発電所を補助金付きで地方に分散すればよい。「安心」がほしいなら、都会の人々の健康のために地方の自然環境の開発を交付金付きで徹底的に規制して自然公園を整備すればよい。日比谷公園をヘリパッドにし、新宿御苑や代々木公園に兵舎を配置し、東京湾を埋め立てて空軍基地にして。 沖縄県知事選挙。普天間基地の辺野古移設(=新基地建設)への賛否が最大の争点となっている。それゆえこの選挙は単に一自治体の首長選挙という性格を超え、日本全体の政策を左右するはずのものだ。自民党政権は、「辺野古の問題はもう終わった」と沖縄の人々の意思を徹底的に無視しようとしている。前回知事選で仲井真現知事は自民党の推薦を受けつつ辺野古移設反対を公約に掲げて当選したが、移設容認に転じた。前回総選挙で自民党公認の4候補も、辺野古移設反対を掲げて当選し、容認に転じさせられた。だから今回の知事選挙は、基地問題とともに民主主義そのものが問われているのだ。 しかし本土では衆議院の解散風にメディアも人々も見事に乗せられ(あるいは自ら乗っかり)、沖縄県知事選挙はほとんどニュースになっていない。相変わらず、いつまで経っても、フクシマを経験しても、遠い所の問題はあくまで遠く、他人事はどうあっても自分のことにはならない。 por Andrés退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)