テアトル新宿で若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(http://wakamatsukoji.org/)を観た。水曜日の初回、11時半からの上映であるにもかかわらず、立ち見も出る状態。私たちは10時半ごろに着いて入場券を購入し指定席を確保できたのだが。劇場の客層も、この時間帯では中高年の女性が多数で、そこに若い男女がちらほらというのが通常なのに、今回は私たちと同年輩以上の、それも男性が圧倒的多数。皆、「あの時代」を経験した人たちなのだろう。

 映画は、60年安保から全共闘運動までの流れを当時のフィルムでざっとたどった後、赤軍派の結成、連合赤軍の成立から山岳ベースでの「総括」、そして「あさま山荘銃撃戦」までをドキュメンタリー風のドラマで描いている。190分の上映時間を長いとは感じさせないもので、何かを特に英雄的に仕立て上げるわけでもなく、全体には「坦々とした描写」との印象が残った。述べられた事実としては、これまでに手記や記録の類で知らされてきたことに付け加える新たなものはなかった。

 観ている間中、違和感がずっと付きまとっていた。年月の経過のためなのか、時代・社会の変化の故なのか、私の側のせいなのか。出口の見えない違和感と重い塊を抱え込まされてしまったようで、帰宅後すっかり疲れてしまい、久しぶりに良く眠れない一夜となってしまった。

 映画の最後に、加藤元久が「総括」を思い出しながら「俺たちみんな、勇気がなかったんだよ」と叫ぶ。勇気がなかったから「総括」という名の粛清・殺人を止められなかった、指導部の暴走を止められなかった。これがこの作品の、若松監督の結論なのだろうか。36年かかってたどり着いた結論がこれなのだろうか。連合赤軍メンバー個々の勇気、永田洋子の「嫉妬心」、森恒夫の「後ろめたさ」といったような個人の資質に「総括」の原因を帰してしまう姿勢は、「総括」を要求した姿勢から一歩も離れていないように思われる。

 「だったらお前はどうなんだ」と問われれば、黙るしかないのだが。この作品というよりも、あの「総括」そのものがまだ重く私たちを抑えつけている。

por Andres

Andres y Amelia映画・テレビ テアトル新宿で若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(http://wakamatsukoji.org/)を観た。水曜日の初回、11時半からの上映であるにもかかわらず、立ち見も出る状態。私たちは10時半ごろに着いて入場券を購入し指定席を確保できたのだが。劇場の客層も、この時間帯では中高年の女性が多数で、そこに若い男女がちらほらというのが通常なのに、今回は私たちと同年輩以上の、それも男性が圧倒的多数。皆、「あの時代」を経験した人たちなのだろう。  映画は、60年安保から全共闘運動までの流れを当時のフィルムでざっとたどった後、赤軍派の結成、連合赤軍の成立から山岳ベースでの「総括」、そして「あさま山荘銃撃戦」までをドキュメンタリー風のドラマで描いている。190分の上映時間を長いとは感じさせないもので、何かを特に英雄的に仕立て上げるわけでもなく、全体には「坦々とした描写」との印象が残った。述べられた事実としては、これまでに手記や記録の類で知らされてきたことに付け加える新たなものはなかった。  観ている間中、違和感がずっと付きまとっていた。年月の経過のためなのか、時代・社会の変化の故なのか、私の側のせいなのか。出口の見えない違和感と重い塊を抱え込まされてしまったようで、帰宅後すっかり疲れてしまい、久しぶりに良く眠れない一夜となってしまった。  映画の最後に、加藤元久が「総括」を思い出しながら「俺たちみんな、勇気がなかったんだよ」と叫ぶ。勇気がなかったから「総括」という名の粛清・殺人を止められなかった、指導部の暴走を止められなかった。これがこの作品の、若松監督の結論なのだろうか。36年かかってたどり着いた結論がこれなのだろうか。連合赤軍メンバー個々の勇気、永田洋子の「嫉妬心」、森恒夫の「後ろめたさ」といったような個人の資質に「総括」の原因を帰してしまう姿勢は、「総括」を要求した姿勢から一歩も離れていないように思われる。  「だったらお前はどうなんだ」と問われれば、黙るしかないのだが。この作品というよりも、あの「総括」そのものがまだ重く私たちを抑えつけている。 por Andres退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)