『(小泉)構造改革の急先鋒たる一人だった』(p.21)著者が、『「懺悔の書」でもある』(p.3)としているもの。

中谷巌とは一体どのような人物なのだろう。本書のカバーに『三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株)理事長。多摩大学教授、多摩大学ルネッサンスセンター長。一橋大学名誉教授。65年一橋大学経済学部卒。日産自動車に勤務後、ハーバード大学に留学。73年、ハーバード大学経済学博士。その後、同大学研究員、大阪大学教授などを経て一橋大学教授に就任。細川内閣の経済改革研究会委員、小渕内閣の経済戦略会議の議長代理を歴任。99年、ソニー株式会社取締役、03年、ソニー取締役会議長に就任(05年まで)』とあるようにきらびやかな経歴の持ち主である。

第一章の表題は『なぜ、私は「転向」したのか』であるが、まさに本書は中谷氏の「転向」を示している。「転向」とは『特に、共産主義者・社会主義者などが権力の強制などのために、その主義を放棄すること』(広辞苑)だ。もちろん彼は共産主義者でも社会主義者でもないし、権力による強制があったわけでもない。しかし自らの営為を突き進めた結果としての内的必然性に基づく転回ではない、という点で正しくこれは「転向」なのだ。

著者は、新自由主義がもたらした世界経済の不安定化、所得格差の拡大、地球環境の破壊という「三つの傷」について、本書の前半では主になぜアメリカ合衆国が新自由主義を推し進めたのかを述べ、後半では「文明論」をもとに日本が環境問題でこれからの世界に貢献すべきだと主張している。

しかしここから読み取れるのは、あまりにも表面的で杜撰な著者の姿勢である。

たとえば彼は、キューバでは『いわゆる物乞いにも出会わなかった』(p.120)と記している。実際に物乞いを見かけなかったのかもしれないが、旅行記ではないのだから、こうした記述が「キューバには物乞いはいなかった」という意味を帯びてしまうことを彼は意識しないのだろうか。昨年の経験からすると、キューバで物乞いに出会うのはそれほど稀なことではない。彼が物乞いに出会わなかったとすれば、余ほど短期間、限られた場所を訪れただけなのだろうが、自己の経験が限定的であることに全く無自覚なままでキューバの現状を語ってしまうのだ。

また『アメリカが軍事力を行使してでも民主主義体制を普遍的正義として実現しようとしている』(p.182)とも書いている。中南米でのアメリカ合衆国の行動を少しでも見れば、『アメリカが軍事力を行使してでも』実現しようとしたのはアメリカの権益であって、そのためには民主主義体制を打倒して独裁体制を実現し擁護することも厭わなかったのは明らかだ。

こうした杜撰な姿勢は、後半の俗流文明論でも繰り返されて、本書全体を覆っている。これが著者の本質だとすれば、新自由主義が「三つの傷」をもたらすという確実に予想可能だったことに彼が思い至らなかったのは無理もない。

しかしそれほどまでに無能な人物が日本の経済政策を左右していたとは考えたくない。むしろ彼は確信犯的に時流に乗り、新自由主義や「構造改革」が隆盛になると見ればそのお先棒を担ぎ、それが破たんすると社民主義的な政策ににじり寄っているのかもしれない。そうした世渡りの中で、この程度の内容でも、さらにはこの程度の内容だからこそ売れる、と世の中を甘く見切って書きあげたのが本書だとも考えられる。

いずれにしても後味の悪い一冊だ。

por Andres

Andres y Amelia書籍・雑誌『(小泉)構造改革の急先鋒たる一人だった』(p.21)著者が、『「懺悔の書」でもある』(p.3)としているもの。 中谷巌とは一体どのような人物なのだろう。本書のカバーに『三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株)理事長。多摩大学教授、多摩大学ルネッサンスセンター長。一橋大学名誉教授。65年一橋大学経済学部卒。日産自動車に勤務後、ハーバード大学に留学。73年、ハーバード大学経済学博士。その後、同大学研究員、大阪大学教授などを経て一橋大学教授に就任。細川内閣の経済改革研究会委員、小渕内閣の経済戦略会議の議長代理を歴任。99年、ソニー株式会社取締役、03年、ソニー取締役会議長に就任(05年まで)』とあるようにきらびやかな経歴の持ち主である。 第一章の表題は『なぜ、私は「転向」したのか』であるが、まさに本書は中谷氏の「転向」を示している。「転向」とは『特に、共産主義者・社会主義者などが権力の強制などのために、その主義を放棄すること』(広辞苑)だ。もちろん彼は共産主義者でも社会主義者でもないし、権力による強制があったわけでもない。しかし自らの営為を突き進めた結果としての内的必然性に基づく転回ではない、という点で正しくこれは「転向」なのだ。 著者は、新自由主義がもたらした世界経済の不安定化、所得格差の拡大、地球環境の破壊という「三つの傷」について、本書の前半では主になぜアメリカ合衆国が新自由主義を推し進めたのかを述べ、後半では「文明論」をもとに日本が環境問題でこれからの世界に貢献すべきだと主張している。 しかしここから読み取れるのは、あまりにも表面的で杜撰な著者の姿勢である。 たとえば彼は、キューバでは『いわゆる物乞いにも出会わなかった』(p.120)と記している。実際に物乞いを見かけなかったのかもしれないが、旅行記ではないのだから、こうした記述が「キューバには物乞いはいなかった」という意味を帯びてしまうことを彼は意識しないのだろうか。昨年の経験からすると、キューバで物乞いに出会うのはそれほど稀なことではない。彼が物乞いに出会わなかったとすれば、余ほど短期間、限られた場所を訪れただけなのだろうが、自己の経験が限定的であることに全く無自覚なままでキューバの現状を語ってしまうのだ。 また『アメリカが軍事力を行使してでも民主主義体制を普遍的正義として実現しようとしている』(p.182)とも書いている。中南米でのアメリカ合衆国の行動を少しでも見れば、『アメリカが軍事力を行使してでも』実現しようとしたのはアメリカの権益であって、そのためには民主主義体制を打倒して独裁体制を実現し擁護することも厭わなかったのは明らかだ。 こうした杜撰な姿勢は、後半の俗流文明論でも繰り返されて、本書全体を覆っている。これが著者の本質だとすれば、新自由主義が「三つの傷」をもたらすという確実に予想可能だったことに彼が思い至らなかったのは無理もない。 しかしそれほどまでに無能な人物が日本の経済政策を左右していたとは考えたくない。むしろ彼は確信犯的に時流に乗り、新自由主義や「構造改革」が隆盛になると見ればそのお先棒を担ぎ、それが破たんすると社民主義的な政策ににじり寄っているのかもしれない。そうした世渡りの中で、この程度の内容でも、さらにはこの程度の内容だからこそ売れる、と世の中を甘く見切って書きあげたのが本書だとも考えられる。 いずれにしても後味の悪い一冊だ。 por Andres退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)