ジャン=クリストフ・リュファン『永遠なるカミーノ』春風社

表紙に記された「なぜ、1ヶ月もかけて歩くのか?」という問いに、本書は冒頭近くで以下のように答えている。
なぜ?
直接に尋ねはしなくとも、他人は当然そう考える。
巡礼から戻って、「コンポステーラまで歩いてきた」という言葉を誰かに向けて発するたび、相手の 目に同じ表情が浮かぶのに気付く。まずは驚き(「こいつは何を求めて行ったんだ」)。次いで、気付かれぬようにじろじろと顔を見る様子から、警戒心。
すぐに結論が導き出される。「こいつは何か問題を抱えているな」。あなたは気詰まりを感じる。幸いにも、現代は寛容が美徳となる時代だ。相手は平静を取り戻す。驚きと喜びを同時に表現する熱い表情を浮かべて見せる。「羨ましいなあ」。そして、どうせ嘘をつかねばならぬのなら、思い切り派手にやってやれとばかりに付け加える。「いつかカミーノを歩くのが僕の夢なんだ・・・・」
「なぜ」という問いは、おおむねこの言葉と共に停止する。正常な大人がリュックを背負って千キロ近く歩くに至る理由を議論するのは難事である。同じ計画を温めていると告白することで、その難事を自分も相手も行わなくて済むようになる。すると直ちに、「どうやって」という質問に移ることができるのだ。一人で?どこを通った?日数はどれくらいかかった?
こういう風に物事が進めば幸いである。なぜなら、ごく稀に「なぜサンティアゴに行ったのですか?」という質問を正面からぶつけられることがあり、答えに窮してしまったからだ。それは恥ずかしさではなく、本気で困惑した印なのである。
当惑を表明する代わりに、一番良い解決策は、いくつか手がかりを与えてやることだ。必要ならばそれをでっち上げて、質問者の好奇心を逸らし、追跡をかわす。「子供の頃、町の古い建物に帆立貝が描かれていたから」(フロイト的方向)。「世界中の有名な巡礼にずっと惹かれていたから」(宗教融和的方向)。「中世が好きだから」(歴史的方向)。「夕陽が沈む方向に歩いて、海と出会いたかったから」(神秘的方向)。「じっくり考えたかったから」―この答えが一番期待に適い、「正しい」答えだと一般に考えられている。しかしこの答えは自明のものではない。じっくり考えるために可能な、また望ましい方法は他にいくらでもあるのではないか。家から外に出ない、ベッドか肘掛け椅子の上でだらだらする、やむを得ない場合は近所の歩き慣れた道を少し歩いてみるというのは?
カミーノには、歩み出そうとした理由を忘れさせる〈力〉とは言わないまでも、そういう〈効果〉があるのだと、未体験者にどう説明すれば良いのだろうか。巡礼を始めるに至った種々雑多な思いが、カミーノを歩いたという明白な事実に掻き消される。人は出発した、それがすべてなのである。それは〈なぜ〉という問題を〈忘却〉によって解決する。人は前に何があったか覚えていない。何かを発見するとそれ以前の知識がすべて覆されるように、専制的で横暴なコンポステーラ巡礼は、それを企てるに至った思考をすべて消滅させてしまう。
この段階でカミーノの持つ深い性質がどこから生じるかが分かる。カミーノに身を任せたことのない人々の想像と異なり、カミーノはお人好しではない。それは力である。しゃしゃり出て、人を掴み、襲いかかり、作り変える。人に言葉を発させず、黙らせる。たいていの巡礼者は自分では何も決めなかった、「あちらの方から顕れてきた」と確信している。彼らがカミーノを掴まえたのではなく、カミーノが彼らを掴まえたのである。こうした言葉が、このような経験をしたことがない人々に胡散臭く思われることは承知している。私自身、出発前にこうした言葉を聞いたら肩をすくめたであろう。強烈にいかがわしい臭いがする。理性に反している。
しかし、その言葉の正しさを私はすぐに実感した。何か決心をする度に、カミーノが私に力強く働きかけ、私を打ち負かしたとは言わないまでも言い負かした。
カミーノを歩く前に多くの本に触れたが、いずれもそれぞれの著者の「なぜ?」への答えではあっても、私の答えではないと思えた。自分でも答えは出していたつもりだったが、カミーノを歩き、繰り返し歩く中で、自身で出していた答えも違うように思えてきた。
そして今、上に引用した答えが最もしっくりするように思える。
https://dosperegrinos.net/?p=22331/images/2026/01/image.webp/images/2026/01/image-150x150.webpサンティアゴ巡礼書籍・雑誌Camino,Santiago,サンティアゴ,ジャン=クリストフ・リュファン,巡礼,永遠なるカミーノ表紙に記された「なぜ、1ヶ月もかけて歩くのか?」という問いに、本書は冒頭近くで以下のように答えている。 なぜ? 直接に尋ねはしなくとも、他人は当然そう考える。 巡礼から戻って、「コンポステーラまで歩いてきた」という言葉を誰かに向けて発するたび、相手の 目に同じ表情が浮かぶのに気付く。まずは驚き(「こいつは何を求めて行ったんだ」)。次いで、気付かれぬようにじろじろと顔を見る様子から、警戒心。 すぐに結論が導き出される。「こいつは何か問題を抱えているな」。あなたは気詰まりを感じる。幸いにも、現代は寛容が美徳となる時代だ。相手は平静を取り戻す。驚きと喜びを同時に表現する熱い表情を浮かべて見せる。「羨ましいなあ」。そして、どうせ嘘をつかねばならぬのなら、思い切り派手にやってやれとばかりに付け加える。「いつかカミーノを歩くのが僕の夢なんだ・・・・」 「なぜ」という問いは、おおむねこの言葉と共に停止する。正常な大人がリュックを背負って千キロ近く歩くに至る理由を議論するのは難事である。同じ計画を温めていると告白することで、その難事を自分も相手も行わなくて済むようになる。すると直ちに、「どうやって」という質問に移ることができるのだ。一人で?どこを通った?日数はどれくらいかかった? こういう風に物事が進めば幸いである。なぜなら、ごく稀に「なぜサンティアゴに行ったのですか?」という質問を正面からぶつけられることがあり、答えに窮してしまったからだ。それは恥ずかしさではなく、本気で困惑した印なのである。 当惑を表明する代わりに、一番良い解決策は、いくつか手がかりを与えてやることだ。必要ならばそれをでっち上げて、質問者の好奇心を逸らし、追跡をかわす。「子供の頃、町の古い建物に帆立貝が描かれていたから」(フロイト的方向)。「世界中の有名な巡礼にずっと惹かれていたから」(宗教融和的方向)。「中世が好きだから」(歴史的方向)。「夕陽が沈む方向に歩いて、海と出会いたかったから」(神秘的方向)。「じっくり考えたかったから」―この答えが一番期待に適い、「正しい」答えだと一般に考えられている。しかしこの答えは自明のものではない。じっくり考えるために可能な、また望ましい方法は他にいくらでもあるのではないか。家から外に出ない、ベッドか肘掛け椅子の上でだらだらする、やむを得ない場合は近所の歩き慣れた道を少し歩いてみるというのは? カミーノには、歩み出そうとした理由を忘れさせる〈力〉とは言わないまでも、そういう〈効果〉があるのだと、未体験者にどう説明すれば良いのだろうか。巡礼を始めるに至った種々雑多な思いが、カミーノを歩いたという明白な事実に掻き消される。人は出発した、それがすべてなのである。それは〈なぜ〉という問題を〈忘却〉によって解決する。人は前に何があったか覚えていない。何かを発見するとそれ以前の知識がすべて覆されるように、専制的で横暴なコンポステーラ巡礼は、それを企てるに至った思考をすべて消滅させてしまう。 この段階でカミーノの持つ深い性質がどこから生じるかが分かる。カミーノに身を任せたことのない人々の想像と異なり、カミーノはお人好しではない。それは力である。しゃしゃり出て、人を掴み、襲いかかり、作り変える。人に言葉を発させず、黙らせる。たいていの巡礼者は自分では何も決めなかった、「あちらの方から顕れてきた」と確信している。彼らがカミーノを掴まえたのではなく、カミーノが彼らを掴まえたのである。こうした言葉が、このような経験をしたことがない人々に胡散臭く思われることは承知している。私自身、出発前にこうした言葉を聞いたら肩をすくめたであろう。強烈にいかがわしい臭いがする。理性に反している。 しかし、その言葉の正しさを私はすぐに実感した。何か決心をする度に、カミーノが私に力強く働きかけ、私を打ち負かしたとは言わないまでも言い負かした。 カミーノを歩く前に多くの本に触れたが、いずれもそれぞれの著者の「なぜ?」への答えではあっても、私の答えではないと思えた。自分でも答えは出していたつもりだったが、カミーノを歩き、繰り返し歩く中で、自身で出していた答えも違うように思えてきた。 そして今、上に引用した答えが最もしっくりするように思える。 Andrés andres@nifty.comAdministratorDos Peregrinos







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