原作 遠藤周作
監督 マーティン・スコセッシ

原作を超えることはできなかった。
こうした映画を撮ることは難しい。同様に観ることも難しいように思う。
原作を読んだのはかれこれ40年以上前の学生時代だ。しかし強烈な印象が残っているわけではない。その頃の宗教への関心は信仰そのものにではなく、組織としての、また権力としての教団へのものが主だったと記憶する。それが、「沈黙」を読んだの時には打たれるものがあったはずなのに、感動の中身も筋さえも曖昧になっている理由だろう。それでも一度読んでしまったものは、読んだことがなかったかのようにして映画に接することはできない。結果、どうしても両者を比較してしまうことになる。
この映画は、とても成功作とは言えない。キチジローの造形やイノウエの言動などには見るべきものがある。しかし全体としては原作の映画化以上のものにはなっていない。監督が遠藤の作品にあまりに入り込みすぎた結果なのだろうか。

二人の神父ロドリゴとガルベが、転んだとのうわさのある行方不明のフェレイラ神父を探しに、キチジローの案内で日本にわたる。隠れキリシタンの里で神父としての仕事をするが、やがて役人に見つかってしまう。拷問され処刑されるキリシタンを前に、ロドリゴは必死に祈るが、神は沈黙したまま。「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と奉行のイノウエに棄教を迫るられ、棄教したフェレイラにも説得されてロドリゴは転ぶ。そんなロドリゴにイエスが語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」と。

ロドリゴの苦悩に比べればイエスの十字架上の苦しみは軽いものに思えてしまう。イエスのは信仰と使命感に支えられているが、ロドリゴのには多くのキリシタンの苦痛に神を裏切る自身の苦悩も加わっているのだから。

/images/2017/03/20170303104053.jpg/images/2017/03/20170303104053-150x150.jpgAndrés映画・テレビ原作 遠藤周作 監督 マーティン・スコセッシ 原作を超えることはできなかった。 こうした映画を撮ることは難しい。同様に観ることも難しいように思う。 原作を読んだのはかれこれ40年以上前の学生時代だ。しかし強烈な印象が残っているわけではない。その頃の宗教への関心は信仰そのものにではなく、組織としての、また権力としての教団へのものが主だったと記憶する。それが、「沈黙」を読んだの時には打たれるものがあったはずなのに、感動の中身も筋さえも曖昧になっている理由だろう。それでも一度読んでしまったものは、読んだことがなかったかのようにして映画に接することはできない。結果、どうしても両者を比較してしまうことになる。 この映画は、とても成功作とは言えない。キチジローの造形やイノウエの言動などには見るべきものがある。しかし全体としては原作の映画化以上のものにはなっていない。監督が遠藤の作品にあまりに入り込みすぎた結果なのだろうか。 二人の神父ロドリゴとガルベが、転んだとのうわさのある行方不明のフェレイラ神父を探しに、キチジローの案内で日本にわたる。隠れキリシタンの里で神父としての仕事をするが、やがて役人に見つかってしまう。拷問され処刑されるキリシタンを前に、ロドリゴは必死に祈るが、神は沈黙したまま。「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と奉行のイノウエに棄教を迫るられ、棄教したフェレイラにも説得されてロドリゴは転ぶ。そんなロドリゴにイエスが語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」と。 ロドリゴの苦悩に比べればイエスの十字架上の苦しみは軽いものに思えてしまう。イエスのは信仰と使命感に支えられているが、ロドリゴのには多くのキリシタンの苦痛に神を裏切る自身の苦悩も加わっているのだから。退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)