7月6日、オウム真理教元幹部7名の死刑が執行された。
オウム真理教によるとされている事件を振り返る報道はいくつも流され、死刑制度の是非を論じた記事も散見される。
オウム真理教事件はさまざまな衝撃を与えたし、多く論じられてきた。しかし何点か論考の不十分なものがいまだに残っている。
人であれ教義であれ、それを絶対化した時、組織や組織内の人々は暴走せざるを得ないということ。
宗教が、特にその草創期においては、ある場合には意識的に、ある場合には不可避的に時の権力と激しく対立し、弾圧されざるを得ないこと。
人は、傍目からは恵まれた生活を送っているように見えても、合理的論理的思考の人物と思われても、宗教的なものに強く惹かれてしまうことがあるということ。
これらはオウム以前から多くの人々に永く考えられてきたことだし、今後も考え続けられることだ。
ただ事件当時もほとんど触れられず、今回も指摘されることのない点がある。それは被疑者の人権問題だ。近年、被害者の人権が主張されることは多くなったが、それと併存不能であるかのようにして被疑者の人権は次々に軽視され無視されてきている。被疑者の権利が、特に日本において軽視されるようになった、その転換点がオウム事件だったように思う。それまでも被疑者の権利が尊重されているとはとても言えるような状態でなかった日本だが、それでも尊重する方向に進むべきだとの主張は様々になされ、わずかずつではあってもその方向に進んでいるかに見えていた。しかしオウム事件において、オウム関係者に対しては人権を考慮する必要はないというような動きが現れ、しかもそれを批判するような論調はほとんど影を潜め、あるいはメディアに取り上げられることがほとんどなくなってしまった。
オウム関係者の転入届を市役所が受理しない、転校を学校が受け入れない、駐車場を歩いただけで不法侵入で逮捕するといったようなことが頻発し、多くの日本人は当然のこととして容認しあるいは支持したのだった。オウムへの弾圧を批判する者はオウムを擁護する者というような短絡でさえないような感情的反応が社会を覆った。
しかしやがて徐々に権利軽視の風潮は一般化し、「普通の人々」にも降りかかって行った。企業内でのリストラ、サービス残業という名の企業による窃盗(支払うべき時間外手当を払わないのは窃盗と呼ぶべきだろう)、過労死という名の企業による殺人(多くの前例を承知したうえで長時間労働を強いて命を奪うのは殺人と呼ぶべきだ)等々。
自分はオウムではないから、自分はリストラの対象になっていないから・・・と思い、思い込もうとすることで儚い安心を得てきた人々は、次には強いものににじり寄りことで保身を図るようになった。
こうして日本の社会は「人権」も「民主主義」も投げ捨てて「長い物には巻かれろ」「寄らば大樹の陰」「お上の言うことはご無理ごもっとも」・・・へと雪崩をうつことになった。
オウム事件は現在の日本の出発点と言える。
Andrés政治・経済・国際日記・コラム・つぶやき7月6日、オウム真理教元幹部7名の死刑が執行された。 オウム真理教によるとされている事件を振り返る報道はいくつも流され、死刑制度の是非を論じた記事も散見される。 オウム真理教事件はさまざまな衝撃を与えたし、多く論じられてきた。しかし何点か論考の不十分なものがいまだに残っている。 人であれ教義であれ、それを絶対化した時、組織や組織内の人々は暴走せざるを得ないということ。 宗教が、特にその草創期においては、ある場合には意識的に、ある場合には不可避的に時の権力と激しく対立し、弾圧されざるを得ないこと。 人は、傍目からは恵まれた生活を送っているように見えても、合理的論理的思考の人物と思われても、宗教的なものに強く惹かれてしまうことがあるということ。 これらはオウム以前から多くの人々に永く考えられてきたことだし、今後も考え続けられることだ。 ただ事件当時もほとんど触れられず、今回も指摘されることのない点がある。それは被疑者の人権問題だ。近年、被害者の人権が主張されることは多くなったが、それと併存不能であるかのようにして被疑者の人権は次々に軽視され無視されてきている。被疑者の権利が、特に日本において軽視されるようになった、その転換点がオウム事件だったように思う。それまでも被疑者の権利が尊重されているとはとても言えるような状態でなかった日本だが、それでも尊重する方向に進むべきだとの主張は様々になされ、わずかずつではあってもその方向に進んでいるかに見えていた。しかしオウム事件において、オウム関係者に対しては人権を考慮する必要はないというような動きが現れ、しかもそれを批判するような論調はほとんど影を潜め、あるいはメディアに取り上げられることがほとんどなくなってしまった。 オウム関係者の転入届を市役所が受理しない、転校を学校が受け入れない、駐車場を歩いただけで不法侵入で逮捕するといったようなことが頻発し、多くの日本人は当然のこととして容認しあるいは支持したのだった。オウムへの弾圧を批判する者はオウムを擁護する者というような短絡でさえないような感情的反応が社会を覆った。 しかしやがて徐々に権利軽視の風潮は一般化し、「普通の人々」にも降りかかって行った。企業内でのリストラ、サービス残業という名の企業による窃盗(支払うべき時間外手当を払わないのは窃盗と呼ぶべきだろう)、過労死という名の企業による殺人(多くの前例を承知したうえで長時間労働を強いて命を奪うのは殺人と呼ぶべきだ)等々。 自分はオウムではないから、自分はリストラの対象になっていないから・・・と思い、思い込もうとすることで儚い安心を得てきた人々は、次には強いものににじり寄りことで保身を図るようになった。 こうして日本の社会は「人権」も「民主主義」も投げ捨てて「長い物には巻かれろ」「寄らば大樹の陰」「お上の言うことはご無理ごもっとも」・・・へと雪崩をうつことになった。 オウム事件は現在の日本の出発点と言える。退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)