誘導灯41年後に旅日記を読み返し写真を見直しながらブログにまとめてみたが、感じたことを書き連ねてみたい。

「スペイン旅行 1980…」と題して掲載した記事の文章は、旅行当時に書いた日記をほとんど無修正で書き写したものだ。修正したのは個人名と明らかな誤字だけだ。そのため無理解や知識不足からくる見当違いな感想なども散見されるが、それらも当時の私たちの実態だったのだろうから、そのままで掲載した。

私が最初の海外旅行先としてスペインを選んだのは、スペイン戦争に興味があったからで、なかでもブエナベントゥラ・ドゥルティという人物を中心にアナキストたちの動きを追ってみたいと考えていたからだ。旅程にフランス・スペインの国境越え、レオンのドゥルティ生家、マドリッドの大学都市やホテル・リッツなどが入っているのはそのためだ。

当時は、配偶者がスペイン語を少しばかり習っただけで、私は初心者でさえもなかった。しかも、配偶者はそれまでに東南アジア、韓国、ヨーロッパと海外旅行の経験があったが私は初めての国外。そのため旅行中は配偶者への負担が非常に大きかった。

写真は安物ではあったが一眼レフカメラで、ポジフィルムを使って撮影したもの。マニュアルでピント合わせをしていたので、ピントの甘いものが多い。当時のフィルムや現像の故なのか、40年という歳月によるものなのか、色彩に鮮やかさはない。

40年も経つと旅行を取り巻く環境が大きく変わっているのが分かる。旅の順を追って記すと、先ず空路の違い。当時はアラスカのアンカレジ経由が最も一般的なコースだった。1980年の旅行では航空運賃を少しでも節約しようと、ソウル経由の便となり遠回りになっているが、それでもアンカレジを通っている。

現地での長距離移動は、ユーレイルパスを使っての鉄道。時刻表通りに走ることがめったにない時代だったので、遅れることについてはあまり気にしていなかったようだ。

EUはまだなかったので、フランス・スペイン間でパスポート検査があり、通貨もユーロは無くてフランやペセタ。ペセタ時代のスペインの物価は本当に安かった。

到着後の最初の仕事は宿探し。携帯電話もインターネットも存在しない時代、電話で交渉できるような語学力はなかったので直接行ってみるしかなかった。ツーリスモ(旅行案内所)があれば地図をもらって宿の位置を教えてもらい、そうでなければ宿のありそうな通りに行ってみて探すことになる。Hotel、Hostal、Pensiónの3種の中で私たちが主に泊まったのはHostal。ブログに載せるにあたり具体名のある宿についてインターネットで調べてみたところ、いくつかは現在も営業していることが分かった。それらについては記事中でリンクを貼っておいた。40年経っているので当然改装されており、シャワーやトイレが共用だったところも今はバス・トイレ付になり、HostalだったのがHotelになっているところもある。同じ場所だが経営者が変わったのか宿の名が変わっているところもあった。

食事は、若いだけあってよく食べていたようだ。ほとんどは安食堂や庶民的なバルでとっていたが、食事の写真を撮る気はなかったようだ。

Barには頻繁に入っていたようで、夏なのでCafé con hielo(アイスコーヒー)をよく飲んでいた。

有名な見学地でもそんなに混んでいなかった。アルハンブラやサグラダファミリアなど、最近では入場予約することさえ困難になっているが、当時は直接入場口に行って券を購入し、そのまま見学できた。

それにしても随分激しく動き回っていたものだ。次はいつ行けるか分からないという気持ちと、若さ故の体力がなせる業だったのだろうが。

旅のスタイルは今もそんなに変わっていないし、むしろ最近の方が時間に余裕があるせいか街中でも歩いて移動することが多くなっていることに改めて驚く。また旅日記の文章も、あまり変わっていない。昔は当然手書きで、街歩きの途中でBarやCaféに入ってl休憩するたびに書いていたのが、最近ではホテルに戻ってからPCで書いている。その分、夜の外出はずいぶん減ってしまったが。

この旅の終わりで望んではいたものの予想は全くしていなかったのだが、2年後の1982年には2度目のスペイン旅行を決行している。その際の日記や写真も発見できているので、近日中に掲載するつもりだ。

Andrésスペイン旅行41年後に旅日記を読み返し写真を見直しながらブログにまとめてみたが、感じたことを書き連ねてみたい。「スペイン旅行 1980…」と題して掲載した記事の文章は、旅行当時に書いた日記をほとんど無修正で書き写したものだ。修正したのは個人名と明らかな誤字だけだ。そのため無理解や知識不足からくる見当違いな感想なども散見されるが、それらも当時の私たちの実態だったのだろうから、そのままで掲載した。私が最初の海外旅行先としてスペインを選んだのは、スペイン戦争に興味があったからで、なかでもブエナベントゥラ・ドゥルティという人物を中心にアナキストたちの動きを追ってみたいと考えていたからだ。旅程にフランス・スペインの国境越え、レオンのドゥルティ生家、マドリッドの大学都市やホテル・リッツなどが入っているのはそのためだ。当時は、配偶者がスペイン語を少しばかり習っただけで、私は初心者でさえもなかった。しかも、配偶者はそれまでに東南アジア、韓国、ヨーロッパと海外旅行の経験があったが私は初めての国外。そのため旅行中は配偶者への負担が非常に大きかった。写真は安物ではあったが一眼レフカメラで、ポジフィルムを使って撮影したもの。マニュアルでピント合わせをしていたので、ピントの甘いものが多い。当時のフィルムや現像の故なのか、40年という歳月によるものなのか、色彩に鮮やかさはない。40年も経つと旅行を取り巻く環境が大きく変わっているのが分かる。旅の順を追って記すと、先ず空路の違い。当時はアラスカのアンカレジ経由が最も一般的なコースだった。1980年の旅行では航空運賃を少しでも節約しようと、ソウル経由の便となり遠回りになっているが、それでもアンカレジを通っている。現地での長距離移動は、ユーレイルパスを使っての鉄道。時刻表通りに走ることがめったにない時代だったので、遅れることについてはあまり気にしていなかったようだ。EUはまだなかったので、フランス・スペイン間でパスポート検査があり、通貨もユーロは無くてフランやペセタ。ペセタ時代のスペインの物価は本当に安かった。到着後の最初の仕事は宿探し。携帯電話もインターネットも存在しない時代、電話で交渉できるような語学力はなかったので直接行ってみるしかなかった。ツーリスモ(旅行案内所)があれば地図をもらって宿の位置を教えてもらい、そうでなければ宿のありそうな通りに行ってみて探すことになる。Hotel、Hostal、Pensiónの3種の中で私たちが主に泊まったのはHostal。ブログに載せるにあたり具体名のある宿についてインターネットで調べてみたところ、いくつかは現在も営業していることが分かった。それらについては記事中でリンクを貼っておいた。40年経っているので当然改装されており、シャワーやトイレが共用だったところも今はバス・トイレ付になり、HostalだったのがHotelになっているところもある。同じ場所だが経営者が変わったのか宿の名が変わっているところもあった。食事は、若いだけあってよく食べていたようだ。ほとんどは安食堂や庶民的なバルでとっていたが、食事の写真を撮る気はなかったようだ。Barには頻繁に入っていたようで、夏なのでCafé con hielo(アイスコーヒー)をよく飲んでいた。有名な見学地でもそんなに混んでいなかった。アルハンブラやサグラダファミリアなど、最近では入場予約することさえ困難になっているが、当時は直接入場口に行って券を購入し、そのまま見学できた。それにしても随分激しく動き回っていたものだ。次はいつ行けるか分からないという気持ちと、若さ故の体力がなせる業だったのだろうが。旅のスタイルは今もそんなに変わっていないし、むしろ最近の方が時間に余裕があるせいか街中でも歩いて移動することが多くなっていることに改めて驚く。また旅日記の文章も、あまり変わっていない。昔は当然手書きで、街歩きの途中でBarやCaféに入ってl休憩するたびに書いていたのが、最近ではホテルに戻ってからPCで書いている。その分、夜の外出はずいぶん減ってしまったが。この旅の終わりで望んではいたものの予想は全くしていなかったのだが、2年後の1982年には2度目のスペイン旅行を決行している。その際の日記や写真も発見できているので、近日中に掲載するつもりだ。退職者夫婦の旅と日常(スペイン・旅・留学・巡礼・映画・思索・本・・・)